ガウディの伝言 外尾悦郎 講談社現代新書 ★★★★★
あるとき、石を彫りたくて仕方なくなった25歳の著者は、単身ヨーロッパへ渡る。吸い寄せられるように、ガウディの街、バルセロナへ。そして、当時はまだ旅行者もまばらだった、サグラダ・ファミリアに出会う。生誕の門の傍らに無造作に積まれていた石材の山を見て、無謀にも、「それを一つ彫らせてほしい」と交渉する──以来30年近く、著者はこの未完の大聖堂で、ずっと石を彫り続けてきた。
有名な4本の尖塔は、サグラダ・ファミリアの一つのファザード(生誕の門)に過ぎない。1893年に建設が始められたこの門は、著者が15体の天使像を制作したことにより、2000年に完成した。その最初の一体を彫ったときのことを、著者は次のように書いている。
それから六ヶ月間、私は夢中で彫り続けました。まさに、石の中に入って彫っている状態だったと思います。周囲の音が聞こえなくなり、景色も目に入らなくなり、ただ、石と向き合い、石と自分だけの世界に入っていく。やがて思考の働きも消え、石を打っている肉体の感覚もなくなり、ただ、石に導かれるように体を動かしている。そして、石の中からポンと出てきたように感じられたのが、その年の秋のことです。私はハープを奏でる天使像に出会いました。
ガウディという天才がいて、100年経ってなお、その意志を継ごうとする人たちがいる。一つ一つの彫刻に、これだけの意味が込められている。実際にバルセロナに行って、サグラダ・ファミリアの前に立ったとき、私は一体何を感じるだろうか?
実際のところ、私は建築には詳しくないし、キリスト教もあまり好きではない。しかし本書は、そういうものを超越して、もっと普遍的なことを述べている。著者は、石を彫りながら、人間の幸せについて考える。
人間の幸せとは・・・(中略)・・・どれだけ何かを愛し、その自分でないもののために生きられているかということではないかと思います。自分というのは、他があって初めて存在するものです。その他を利用し、自分の名誉や財産のためだけに生きようとしている人は、どこまで行っても満たされず、精神的に痩せ細っていくものでしょう。そうでなく、他のために生き、それによって自分も満たされるということ。そういう関係の中にこそ、人間が求めるべき幸せがあるような気がします。
また、幸せというのは、現在どれだけのものを持っているかということより、未来にどれだけの希望を持っているかということにかかっているのではないでしょうか。今すべてを持っている人でも、それを失うかも知れないという不安の中に生きていれば不幸だし、今何も持っていない人でも、希望で胸を温めている人は満たされているものだと思います。
良い仕事をすること、一つのことをとことんやり続けること。偉業を成し遂げた人というのは、謙虚でもある。翻って、自分は精一杯努力をしていると言えるだろうか?(08/05/10 読了)