Home > 世界中の山に登りたい! > スマトラ島最高峰 クリンチ山
クリンチ山とは
バリ島最高峰・グヌン山に登ってみて、インドネシアが山だらけであることに気付いた。ものすごく高い山はないが、一つ一つのピークが顕著なのである。
インドネシアは、日本以上に火山の国だ。ジャワ島の地図を眺めてみると分かるが、まるで蚊に食われたみたいに、ボコボコした富士山型の成層火山が東西の軸に沿ってほぼ等間隔に並んでいるのである。
実際、地球上のプロミネンスの高い山ベスト100のうち、実に11座がインドネシアにある。これは、中国に次いで多い。
今回の旅で、ボロブドゥールなどの、ジャワ島中部の遺跡群はぜひ訪れたいと思っていた。
ガイドブックを見てみると、ジャワ島の東部に、ブロモ山という景勝地があるらしい。そして、そのすぐ近くに、ジャワ島最高峰のスメル山(Gunung Semeru, 3,676m)が聳えている。よし、ひとつこいつに登ってやろう。
ところが、調べていくうちに、3月はジャワ島ではまだ雨期であり、スメル山国立公園は閉鎖されていることが判明した。
そのため、一時期はテンションが下がりまくった。が、なおも検索していると、スマトラ島最高峰のクリンチ山(Gunung Kerinci, 3,805m)に登れそうだということが分かってきた。
実はこの山は、スマトラ島の最高峰であるだけでなく、ニューギニア島(イリアン・ジャヤ)を除くインドネシアの最高峰でもあるのだ。
インドネシアの最高峰は、ニューギニア島にあるプンチャック・ジャヤ(Puncak Jaya, 4,884m)だが、これは素人がおいそれと登れるようなシロモノではない。まぁ、イリアン・ジャヤもそのうちインドネシアから分離するかもしれないし。むしろそうあって欲しいものだ。
というわけで、マレーシア最高峰のキナバル山から始まり、non-Papuan Indonesiaの最高峰、クリンチ山で終わるという、美しい旅の構想が固まったわけである。
クリンチ山の登り方
私は、Regina Adventuresという旅行代理店が主催する4泊5日のツアーに参加することにした。
スマトラ島の中部の都市、パダンPadangの空港から始まり、そこで終わるというものである。
日程は、以下の通りだ。
Day1 Padang Airport - Kersik Tuo Village - Home Stay
Day2 Home Stay - Kerinci Entering Post - Shelter
Day3 Shelter - Kerinci Summit - Back to shelter - Home Stay
Day4 Home Stay - Padang Hotel
Day5 Padang Airport
費用は、「public transportなら245万ルピア(100ルピア≒1円)、private transportなら400万ルピア」と言われた。もちろん、public transportにした。
費用の中には、ガイド料、4泊分の宿泊費、食費(Padang ~ Kersik Tuo間を除く)のすべてが含まれ、山でのテントや寝袋も貸してもらえるという。これで2万5千円とは安いと思ったが、実際には、自力でアレンジすればもっとずっと安かった。
というのも、スマトラ島は物価が非常に安いのである。
パダンから、クリンチ山の麓の村、Kersik Tuoへのバスは、8時間もかかるのだが、なんと8万ルピア、たったの800円である。Kersik TuoのHomestay(民宿)も一泊1000円。クリンチ山のガイドも、Kersik TuoのHomestay で直接交渉すれば、1泊2日で8000円程度。
パダンのホテルも自分で取れば2000円程度に抑えられたはずである。食費も微々たるものなので、半分くらいはcommission feeとして消えたことになる。
とはいえ、日本にいて、この山についての情報を得るのは非常に難しい。ネットで検索してみても、この山に登った日本人のサイトは2つくらいしか見当たらなかった。
時間が無地蔵にある行き当たりばったりの旅ならともかく、限られた時間を最大限に活用するためには、この程度の金額を情報料として払うのは致し方ないだろう。
旅は、いよいよ最終ステージへ──
ジャカルタから、Lion Airというローカルな飛行機に乗り、パダンのローカルな空港に降り立った。ここは、ミナンカバウ文化の中心地。空港の建物も、ミナンカバウの建築に特徴的な、屋根が反り返った形をしている。
荷物をピックアップして到着ゲートから出ると、果たしてRegina Adventuresのガイド、Elvisがネームカードを持って待っていてくれた。
その日はバリ島のニュピの日で、インドネシアの祝日だったから、町中の銀行は閉まっていた。もうルピアは底をついていたので、日本円できっかり2万5千円を支払った。
Elvisの車で町中に移動する。Elvisは、ミナンカバウ人だった。ミナンカバウ語はインドネシア語と似ているようだった。ミナンカバウ語の「ありがとう」は、Tarimo Kasihだ。
町中に車を止め、「ここにバスが来るので、しばらく待ちましょう」と言われた。食堂で、ナマズの唐揚げを食べた。とても美味しい。このエリアでは、手で食べるのがデフォルトらしかった。
しばらくすると、車が来たので乗れという。Elvisも一緒に来るものと思っていたのだが、そうではなかった。私は、ツアーの概要を良く理解していないまま、車に押し込められていた。
バスの運転手は、英語を話せなかった。一体私はどこに連れて行かれるのだろう?でも、Elvisが運転手になにやら説明していたようなので、きっと大丈夫だろう。
その車は、TOYOTAのバンだった。町を出る前に、色んなところに立ち寄って人をピックアップし、最終的に9人くらいの人と大量の荷物が詰め込まれた。身動きが取れない。なるほど、これがpublic transportだったのか。
インドネシアの運転は怖い。路上に3人乗り、4人乗りのバイクがウジャウジャいるが、クラクションを鳴らしまくって、蹴散らしながら進んでいくのが基本だ。
少し走ると、周囲の景色はジャングルに変わった。片道一車線のウネウネした山道が延々と続く。たまに未舗装になり、天上に頭をぶつけそうになる。
そういう道を、大量の荷を積んだダンプカーがノロノロ走って道を塞いでいる。見通しのない一車線の道路だが、運転手は、チャンス到来と見ると巧みに追い越しをかけていく。ドライバーの腕は確かだが、いつ出会い頭に衝突するかと思うと、まったく生きた心地がしない。
そういう運転が8時間も続くのだから、トライバーのストレスも相当なものだろう。きっと事故も多発するに違いない。
途中で食堂に止まって休憩する。やがて日はとっぷりと暮れ、雨が降り出した。
あたりが真っ暗になった頃、「Kersik Tuo Homestay!」と運転手に言われた。
ここ?どうやら民宿のようだったが、宿の主人は、ほとんど英語が通じなかった。どうも様子がおかしい。丸っきり話が通じないところを見ると、ここは今夜、私が泊まるところではなさそうだった。
結局、バスの運転手は、私の行き先なんか知らなかったのだ。
携帯でRegina Adventuresのガイド、Elvisに電話してもらった。結局、今夜の宿、Subandi’s Homestayはそのすぐそばにあった。私は宿の名前を聞いていなかった。もし、Elvisに連絡が取れなかったら、この小さな村で途方に暮れていたところだった。
宿には、ヨーロッパ人のバックパッカーが何人かいた。実はここは、Lonely Planet Indonesiaにも掲載されている有名な宿だったのだ。
夕食は、チキン、空心菜の炒め物、ナシ(ごはん)、卵焼き、そして砂糖がたっぷりと入った紅茶だ。チキンは、日本の唐揚げに似た味付けで、とても美味しい。
翌朝。
昨日の大雨がウソのように晴れている!
宿の玄関を出て、唖然とした。目の前にクリンチ山が聳えているではないか!
長い裾を引いた優雅な姿は、富士山と見紛うばかりだ。美しい・・・。
いまいちスケジュールが分からないが、8時に出発するというので、山の格好に着替え、パッキングをして待つ。
朝食のミーゴレンを食べてから、出発。
山のガイドは、この宿の主人、Subandiの息子のKemonだ。Subandiはそんなに年には見えなかったが、Kemonは40歳だという。Kemonもあまり英語を話せず、少し複雑なことを言うともう通じなかった。
登山には、もう一人同行者がいた。ロシア人の青年、25歳のMaxである。Maxは東南アジアを周りながら、6ヶ月も旅を続けるのだという。しかも、(給料は支払われていないが)仕事を続けたまま来ているのだ。実に羨ましい。
Maxは、旅の残りがあと3週間しかないと行って嘆いていた。3週間だって今回の私の全日程よりも長いし、この登山が終わったら私は日本に帰らなければならないというのに。
クリンチ山の麓に広がる一面のtea plantationの道を少し走ると、登山口に着く。8時55分、いよいよ登山開始だ。
Kemonは、テント2つ、寝袋、マット、食料、水などを詰め込んだ巨大なザックを背負って、快調なペースで登っていった。しばらくして、休憩時にKemonのザックを持ち上げてみてびびった。私だったら立ち上がることもできないほどの重さだったのだ!30kgはあったと思う。40歳だというのに、なんというタフなガイドだ!
しかも、聞けば昨日もインドネシア人の一行を連れてクリンチ山に登ったというのだ。そのときは、日帰りで行ったという。
ロシア人のMaxも涼しい顔をして登っていた。彼は、弱冠20歳の時に、ヨーロッパ最高峰エルブルース(Эльбрус, 5,642m)に登ったのだという。ちなみにエルブルースは、ケーブルカーで3900m地点まで行くことができるため、日帰りでも登頂可能なのだそうだ。(ただし、ちゃんと高度順応しておかないと危険。)
クリンチ山にはテントサイトが3箇所ある。
12時50分、4時間弱でShelter2に到着。その上のShelter3まで行くと思っていたが、Shelter3は風が強いので今日はここに泊まるという。どうりで朝、のんびりしていたはずだ。
Kemonは素晴らしいガイドだった。
Shelter2には、鉄の骨組みだけがあった。まずテントを2つ設営し、それから雨よけのビニールシートを斜めにかける。
それから、しばらく谷を下りていって、空のペットボトルに大量に水を汲んで戻ってきた。一旦湧かして飲めば、沢の水でも問題ないというわけだ。
時間はたっぷりあった。
テントサイトには、もちろんトイレなんてなかった。そして、大量のゴミが散乱していた。
キナバル山は徹底的に管理されていたが、ここクリンチ山も国立公園なのに、ひどい格差だ。登山者が少ないからまだあまり大きな問題になっていないのかもしれないが。
お茶を飲んだり、少しまどろんだり、夕陽の写真を撮ったりして過ごす。
コンロは、アルミの鍋に直接オイルを入れて火を付ける。
夕食は、チキンとナシとインスタントラーメンのスープだ。インスタントラーメンも、日本のものと味付けがそっくりで、山で食べると非常に美味しい。
日が暮れると、焚き火をする。ペットボトルだろうがビニールだろうが、全部燃やす。日本の山も、昔はこの位おおらかだったのかもしれない。
テントはMaxと2人で一つだった。少々狭いが、十分快適である。19時30分、就寝。
3時40分、起床。
Kemonはもうお湯を沸かして準備している。紅茶を一杯飲んで、真っ暗闇の中を出発。
テントは残したままにしておくから、今度はKemonもずっと身軽だ。水だけを手にもって登っていく。
Shelter2から先は、道が悪くなる。険しいだけでなく、泥だらけの道がえぐれており、とても歩きにくい。
Maxは一人でひょいひょいと先に行ってしまった。Shelter3を過ぎ、空が白みはじめる。もうすぐ日の出のはずだが、なかなか山頂に着かない。
Kemonがスピードアップする。キナバル山に登ったので高度順応はばっちりのはずだが、呼吸が荒くなる。キナバル山よりずっときつい。
6時10分、登頂成功!
日の出と同時くらいに山頂に着いた。Maxはだいぶ前について、写真撮影にいそしんでいた。
クレーターからは蒸気が吹き出し、噴火口の底には溶岩も見える。
頂上に、人工的なものはなにもない。
空は晴れ渡っている。下界は雲に覆われている。インドネシアで登山をするとは、毎回こういう天気だ。
必ず夜中に出発して日の出の時に山頂に着くようにするのは、日の出のあと数時間は晴れ渡り、その後曇ってくるからだろう。
Maxと
50分ほど滞在して、7時、下山開始。
溶岩がえぐれたようになった道は、滑りやすく非常に歩きにくい。しかし、Maxはまた、ひょいひょいと先に行ってしまった。
私は写真を撮りながらゆっくり下りていった。やがて、木がまばらに生え始め、Shelter3を過ぎると、また泥だらけの悪路になった。
1時間半でShelter2に戻ってきた。ここで、インスタントラーメンの朝食を食べる。
1時間ほど休憩して、出発。今日これから登ってくる別のグループのために、テントや寝袋はそのままにしておく。
熱帯雨林の写真を撮りながら下っていく。高度を下げるにつれ、植生も変化する。サルも姿を現したが、写真は撮れなかった。
最後は、両側にジャガイモやキャベツの畑が広がる田園風景になる。赤い花をつけた木は、シナモンだ。樹皮を剥がすと、確かにシナモンの香りがする。
12時45分、下山。
Subandiが待っていた。彼のスクーターにまたがって宿に帰った。
色とりどりの傘をかぶって、たくさんの女性が茶摘みをしていた。日本と同じだ。
そして突然、スコールが降り出した。
Homestayに戻った。
もちろん、お湯の出るシャワーなんてない。Subandiが、お湯を湧かして桶に入れて持ってきてくれた。水溜めの冷水と混ぜながら、貴重なお湯を少しずつ浴びる。
食事を食べてから、洗濯をする。すべてがあまりにも泥だらけなので、全部手洗いだ。
洗濯物を庭に干させてもらう。庭には、食用のニワトリが闊歩している。
せっかく干した洗濯物は、そのあとのスコールでまたズブ濡れになってしまった。
翌日。
Padangへもどるバスは、9時半頃来るという。大量の荷物をおおかたパッキングしてから、バスが来るまで、Kersik Tuoの町を歩き回る。
今日の空はどんよりと曇っている。ラッキーなことに、山にいる間だけ晴れてくれたのだ。
のどかな農村だった。どこにいても、クリンチ山が大きかった。
市場も素朴だった。ドーナツを買ったら、1個5円(500ルピア)だった。危うく、一桁間違えて支払うところだった。
バスがやって来た。
バスはまた、一車線の山道を、トラックを巧みに追い越しながら、トコトコ走った。車内は終始、インドネシア語の演歌のとろけるようなメロディーが大音量で響き渡っていた。
美しい湖を通り過ぎ、やがて、パダンの町に戻ってきた。
薄汚い川の近くを通り、何ヶ所かで乗客を降ろしてから、バスはなんとかいう5つ星ホテルの前で停まった。ここからタクシーに乗れという。
朝、運転手にホテルのバウチャーを見せて確認したにもかかわらず、またしても、運転手は行き先を分かっていなかった!
タクシーに乗っても500円くらいで着くのだが、”Hari ini pagi Anda lihat ini OK ya?” (“Today morning you look this OK, right?”) と知っているインドネシア語の単語を並べ立てて抗議したら、ホテルまで乗せていってくれることになった。
でも、バウチャーにはホテルの住所が書いてなかった。運転手は、あちこちで人に尋ねながら、なんとか探し出してくれた。これだけやってくれて運賃が800円とは、申し訳なくなってくる。
そのホテルは町外れにあった。3つ星ホテルといいつつ、シャワールームには蛭が這い、エイコンを最強にしても一向に涼しくならないというシロモノだった。これなら自分でagodaで予約すべきだった。
近くの食堂に夕食を食べに行った。ジュースを付けても、たったの230円だった。
あとは、飛行機に乗るだけだ。
Elvisの運転する車でパダンの空港に行く。パダン名物の不味いお菓子を買って、Air Asiaに乗り込む。
クアラルンプールのLCC Airportに着くと、そこは別世界だった。インドネシアのローカルな町から来た身にとっては、マレーシアはひどく先進国に見えた。
このとき、16日間に及ぶ私の旅は終わったのだ。
【完】