Home > 世界中の山に登りたい! > 羅臼岳と知床の旅

旅は、網走へ向かう夜行列車から始まった。
列車は信じられないほど混雑していた。車輌の連結部に陣取っていると、隣に中年男性がやってきて、「袖振り合うも他生の縁」ということでささやかな酒宴が始まった。
いつの間にか私は、歳相応に老け込んでしまい、もはや学生には見られなくなっていた。地に足を付けて生きなくちゃいけないな、と思った。

殆んど眠れないまま霧雨の降る陰鬱な網走の街に到着する。しかし、網走に街はなかった。
刑務所へ行くと、なぜか行列ができている。偶然にもその日は囚人たちの手による家具や農作物が格安で販売される日であり、網走市あげてのビッグ・イベントという風情であった。網走市民吹奏楽団の演奏や「マッスル乱舞隊」による流氷音頭などが披露されていた。
その後、司馬遼太郎の「街道を行く〜オホーツク街道〜」にも登場する、北方少数民族ウイルタの資料館であるジャッカ・ドフニへ向かった。
ジャッカ・ドフニは、公営住宅の最奥部の非常に分かりにくい場所に、人目を避けるようにしてひっそりと建っていた。我々和人によってつくられたウイルタの悲惨な歴史は、この網走の陰気な気候と相俟ってますます私を憂鬱にさせた。色々と尋ねたいこともある筈だったが、私はいかにも中途半端な旅人だったし、極度な睡眠不足のため意識が朦朧とし始めていた。私は知床へ向かうことに決めた。

資料館ジャッカ・ドフニ

翌日は雲一つない快晴だった。知床岩尾別YHから羅臼岳の全貌が明瞭に臨まれる。
その日宿泊していた合計6人のパーティーで羅臼岳登頂を目指した。
機関銃のようにしゃべり続ける中年女性の二人連れには閉口したが、クマよけにはいいかもなどと思いながらタラタラと登る。
頂上に着いたときには既に曇っていて、殆んど何も見えなかった。
「ここが最果ての地、はるばる来にけるかな」という感慨はあまり湧かなかった。
帰りは単独行になり、クマの出没に少々ビビりながらもあっさりと下山。
こうして目的はあまりにも容易に達成されてしまったのだが、結果的にYHの宿泊客の間で連帯感が芽生えた。
翌朝には、異様な盛り上がりの中、希望者が8人揃わないと実現されない「早朝知床五湖ツアー」が今シーズン初めて行われたりした。

羅臼岳山頂!

知床自然センターまで車で運んでもらい、私は漸く一人になった。ここから羅臼湖の入り口までヒッチハイクを試みる。
2台目でいきなり成功し、滞在3週間目の気さくなフリーターのお姉さんに乗せてもらう。
知床峠で休憩すると、あまりにも間近に、巨大なクナシリ島が横たわっていた。
羅臼湖の入り口には何の標識もなく、それと知らなければ全く分からない。
YHで借りた腿までの長靴に履き替えてスタート。
ぬかるみにしばしば足をとられながら、ハイマツが苔のように地表を覆う北方的景観の中を行く。
羅臼岳が美しい。なるほど、これは確かに残された最後の秘境かも知れない…。
ラスト、真っ直ぐに伸びる一本道の果てに、神秘の湖・羅臼湖がようやく姿を現した。
日本百名山には「ハイマツとクマザサのジャングルに覆われ、辿りついた人はほとんどいない」とある。
しかし、私が訪れたまさにその日から遊歩道を付ける工事が始められ、これからしばらく立入禁止になろうというところであった。
やがてここも知床五湖のように駐車場が整備され、観光バスが止まるような単なる観光地に成り下がってしまうのだろうか。

エゾシカ

知床峠より羅臼岳

二の沼より羅臼岳

オロンコ岩より知床連山をのぞむ

最終日、ウトロのまちのオロンコ岩の頂でオホーツク海の見納めをして、女満別空港行きのバスに乗り込んだ。
飛行機の窓からは阿寒湖や摩周湖、大雪山系の山々が眺められた。
名古屋は蒸し暑く、どんよりと曇っていた。私は再び半袖になり、重い現実に眩暈を感じながら家に戻った。
だが、これがたったの3日間の出来事であったことを思え。
旅は虚であるが故に輝く。とにかく、地に足をつけて生きることだ。

こうして私は、数カ月に及ぶ精神的疲労状態から、漸く恢復への足掛かりを掴むことができたのである。

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