Home > 世界中の山に登りたい! > ヨセミテ国立公園 -ハーフドーム登頂-
訳あって日本に帰国することになった。
日本までの道中の長さを考えると気が重かったが、ストップ・オーバーといって途中で一都市に立ち寄っても航空券の値段が100ドルしか上がらないことが判明。最初は、シアトルに行って憧れのマウント・レーニエに登頂してこようかと思ったが、西海岸では選択肢がサンフランシスコしかなかった。
でも、サンフランシスコからヨセミテ国立公園まではそんなに遠くないらしい。インターネットで色々検索していると、こんなウェブサイトを見つけたので、一つ俺もこいつに登ってやろうと思い立った。
1週間休みを取って、土日を2回つなげて8泊9日にしたが、この日程でハーフドームを攻略し、かつ日本での用事をこなすために、見ているだけで疲労しそうな itenerary が出来上がった。
ともかく、こうして期せずして、アメリカに来て初めて山らしい山に登れることになった。西海岸とアメリカの国立公園を訪れるのも初めてのことだった。ちなみに航空券は税込み795ドルだった。
08/30 State College 9:24 → Detroit 11:10 / Detroit 12:27 → San Francisco 14:24 San Francisco 泊
08/31 San Francisco → Yosemite(バス) Yosemite 泊
09/01 Half Dome 登頂 Yosemite 泊
09/02 Yosemite → San Francisco(バス) San Francisco 泊
09/03 San Francisco 13:50 →(機内泊)
09/04 → Narita 17:10 東京泊
09/05 東京泊
09/06 東京泊
09/07 Narita 16:00 → Detroit 14:25 / Detroit 17:55 → State Collge 19:26
サンフランシスコまでの飛行機はやけに長くて、デトロイトから実に5時間もかかった。しかし時差が3時間もあるので、その日の午後に少しく観光することができた。
その夜は Fisherman's Wharf(漁師の波止場)から歩いて5分の San Remo Hotel というところに泊まった。トイレ・風呂共同でシングル65ドル。前回のモントリオールでドミトリーは懲りたので、4夜連続でトイレ・風呂共同のシングル・ルームに泊まることになったが、それにしてもアメリカの宿は高い。
サンフランシスコは確かに霧の都で、ヤバイくらいどんよりと曇っていた。日が落ちるとコートが必要なほど肌寒く、ヨセミテで使おうと思った防寒具はむしろここで活躍した。
波止場にはなぜかアシカの休憩場があって、獣臭が鼻をついた。ここはカリフォルニアだというのに全く鬱病になりそうなところだった。結局、サンフランシスコはこの半日しか観光できなかった。
霧の都・サンフランシスコ
アシカの群れ
翌朝、7時15分発のバスで、早くもサンフランシスコを後にしてヨセミテに向かう。
California Parlor Car Tours という旅行会社のツアーバスだが、ヨセミテに何泊してもよく、往復の日程を自由に設定できる。ここはアメリカなので、バスは平気で25分も遅刻してきやがった。
隣の台湾人の女子学生とチャットをしているうちに、バスは広大な農場を抜けて山岳地帯に入っていった。国立公園内では、有名なトンネル・ビューをはじめ、何箇所かの写真撮影スポットで10分くらいずつ停車した。
有名なトンネルビュー
エル・キャピタン
Merced川とハーフドーム
やっとヨセミテ・ロッジに着いた時には既に1時半過ぎだった。帰りのバスは3時45分に出発するので、日帰りにした場合、ヨセミテには約2時間しか滞在できないことになる。これは、ヨセミテ観光に際して一番やってはいけないこととされている。
とりあえず昼飯を食う。ヨセミテ谷は無料のシャトルバスがバンバン走っているので、これに乗って本日の宿泊地である Curry Village に行く。
Curry Village にはテント・キャビンがずらずら並んでいて、これはヨセミテ公園内で一番安い宿泊施設である。それでも一泊60ドルするが、テントといっても中にはベッドと清潔なシーツ、毛布があって、日本の山小屋よりはずっと快適である。ただ面倒なのは、ブラック・ベアに襲撃される可能性があるため、食糧をテント内に置いておけないことだ。食糧は全てフード・ロッカーに入れなければならない。
そんなに混んでいる訳でもなかったのに、私のテントはよりによって敷地の一番端にあったので、ロッカーが遠くて面倒だった。シャワーに至っては5分ほども歩かなければならなかった。しかも、万一熊に襲撃された場合は真っ先に犠牲になりそうな悲惨な場所だった。
夜、野獣の唸り声のような妙な音が聞こえるのでビクビクしていたが、どうやら隣のテントのオヤジの鼾だったようだ。
ハーフドーム(Curry Villegeより)
CurryVillageのテントキャビン
さて、翌日の登山に備え、Curry Village 内の登山用品店で、地図、岩場を登攀するための革の手袋、サングラスを購入。その後、今日中に少し観光しておこうと欲を出してしまい、ヨセミテ滝へ行った。
これは世界で3番目に落差の大きい滝(739m)らしいが、残念ながらこの時期にはほとんど水が枯れている。でも近づいてみると、下半分はちょろちょろと水が流れているようだ。明日のウォーミング・アップや、などと思って、ごろごろした巨石群を通り抜けて滝壺まで往復したら結構時間がかかってしまった。
glossary store で明日の食糧を調達して、外に出たらもう真っ暗になっていた。
翌朝6時半にテントを出発。とりあえず東へ向かって適当に歩く。
Happy Isle Nature Center に到達したが、トレイルらしきものが一向に見あたらない。その代わり、"horse trail only"というのがあって、歩行者は立ち入り禁止なのだが方向は正しいようなので強行突破を試みる。
馬糞だらけの道をしばらく歩いていくと、道が元来た方向にUターンしている。このままトレイルすら発見できずに終わったらシャレにならん、昨日のうちに予習しておくべきだった、などと思っていると、タイミング良く5頭の馬を連れたヒスパニック系の御者が向こうから悠然と近づいてくる。で、確かにこの道をずっと行くと John Muir Trail に合流するという。
やっと登山道に合流。これからハーフドームに登る、と意気込んでいる若者にも出会い、一安心する。天気は頗る宜しいようだ。
9時30分、やっとネバダ滝に着く。前方からやって来たオヤジに話を聞くと、"This is a really, really long trail" などと言われ、かつ「水も2リットルだけじゃ足りるかどうか知らん」(実際は2.5リットル持っていたが)と脅され、またもや弱気になる。
実際このトレイルはただひたすら長かった。ヨセミテ谷からは、ハーフドームはその名の通り真っ二つにスパッと割ったように見えるが、トレイルはハーフドームをぐるりと回り込むようにして螺旋状につけられているのだ。
裏から見たハーフドーム
最後にこれを登る
John Muir Trail から分岐して Half Dome Trail へ入る。岩場の入り口には、「ここで雷が聞こえたら、ここから先立入るべからず」という看板がある。どうやらここまでは馬でも来られるみたいだ。
階段状に削られた岩場を登り切ると、前方に、噂に聞いた巨大な岩の塊が現れた!見上げると、ほとんど垂直に見える。う〜む、これからこいつに登るのか・・・。
げげ!こいつを登るのか…
さらに接近
覚悟を決めてケーブルに取り付く。これはどうなっているかというと、岩盤に杭が強引に打ち込んであって、そこに2本のケーブルが渡されている。所々梯子状に水平な木の板があって、腕力でケーブルをよじ登り、足場でしばし休憩、ということを繰り返していくのだ。
ただこれ、実際に登ってみるとそんなに怖くはない。まぁ登攀中に杭が抜けたら死亡するだろうが、登っている途中にそんなことは考えない。それより、情けないことに私は途中で両足が同時に攣ったので、結構ピンチだった。
12時45分、やっとこさ頂上に到着。
やっと着いた!!
しばらく寝込んでから、昼メシを食おうと思っておもむろにサンドイッチの包みを開けと、腐っていやがった。
カリフォルニアの強烈な日差しにやられた模様。ドロドロになっていて、とても食えるシロモノではない。ここに至るまでにそれ以外の食糧を既に食べ尽くしていたので、折角山頂に着いたのに何も食べるものがない…。
一通り周囲の写真を撮るが、どれがどの山なのか、地図で確認するのも面倒臭い。
もっとも、後で地図を見てみると、特別な山が見える訳でもなくて、日本のように「よし、今度はアイツに登ってやろう」と沸々と闘志が湧いてくることにはならない。そもそもアメリカでは、山頂までトレイルの付けられている山はあんまりないみたいだ。
ところで、山頂には滋賀大学の学生さんがいた。ロック・クライミングをするために3週間近くヨセミテに滞在するという。彼はなぜか、風流にも頂上で抹茶を点て始めた。私もご馳走してもらい、お陰で下山するための体力が恢復した。
頂上からの展望1
頂上からの展望2
頂上からの展望3(ヨセミテ谷とエル・キャピタン)
山頂には小1時間ほど滞在したと思う。例のケーブルは、登りより下りの方がずっと怖いだろうと思って気が気でなかったが、またしてもそれほどでもなかった。滑らないしっかりとした靴と手袋があれば平気だろう(逆に、そうでないと相当な恐怖感があると思う)。
無事にケーブルを下りきった時初めて、ハーフドームに登頂したゾ、という歓びが湧いてきた。これからケーブルに向かう人に、「山頂は wonderful だ、Good luck!」などと声を掛けるほどの余裕を見せていた。
しかし、その高揚感は長くは続かなかった。再び、ウンザリするほど長いダラダラとした下りが続くのだった。ほとんど何も食べていないので、次第に内蔵まで痛くなってくる始末。
ネバダ滝が近づいてきて、せせらぎの音が聞こえた時は嬉しかった。ここより上には水は一切ない。
登る時には気付かなかったが、ネバダ滝の少し上流にエメラルド・グリーンに輝く美しい池があった。底に沈んでいる倒木が鮮明に見える。手拭いを水に浸して、頭に巻くと生き返った。
ネバダ滝
ネバダ滝上流の美しい池1
ネバダ滝上流の美しい池2
4時半過ぎ、今ドキの大学生風(茶髪)の日本人アベックに会う。これからハーフドームに登るなどとのたまっている。テントを持っている訳でもなくて、「適当に毛布にくるまって」寝るんだという。自分は朝6時半に出発して、今戻るところだ、と言うと、「ということは、俺たちヤバイってこと?急げー」という捨て台詞を残して去ってしまった。老婆心ながら、彼らは水とかは持っていたのかな?まぁどうでもいいんですけどね。
5時15分、ナントカ滝の見える橋に出た。ここにはいかにも観光客とおぼしきいでだちの人が大勢いる。ここから先は舗装道路だ。ほどなくシャトルバスの通る車道に出た。なるほど、ここからスタートすれば良かったのか。結局、往復11時間もかかった。
テントに戻り、シャワーを浴びてから何かを胃袋に詰めようと試みる。ここは焼き肉でも食べたいところだが、悲惨なことに、ここ Curry Villege にはピザ屋さんしかなかった…。ここのピザは美味しいのかもしれないけど、余りにも激しく疲労すると、こういうのは受け付けなんだよね。仕方なく、サラダだけ食べてあとは塩を舐めていた。そして、焼き肉の夢を見ながら昏々と眠った。
翌日は、特にすることもなかった。それにしてもヨセミテ谷はものすごい喧噪だ。シャトルバスは満員電車並みに混んでいるし、自動車の排気ガスもウザい。ということは、公園内に宿泊したところで、ヨセミテ谷から脱出しないことには何の意味もないってことか。
ビジターセンターの隣にある博物館に行ってみた。館内では、先住民の青年と少年があやとりに興じていた。彼は、自分は Maidu だと言った。ヨセミテ谷に住んでいた先住民は Miwok(ミウォーク)である。どちらも Penutian に属する言語を持つが、いずれも話者は数人しか生存していないようなので、絶滅は時間の問題である(参考:ethnologue)。
ここは国立公園だから米国政府、つまり白人が管理しているけれども、元々はミウォークの人たちがこの外界から隔絶された谷底でひっそりと平和に暮らしていたのだ。
1850年頃、ゴールドラッシュのためこの地域に続々と白人が侵入してきた。やがて白人と先住民の間で衝突が起こるようになり、Mariposa Indian War の結果、先住民たちは強制的に居留地に移住させられることになった。アメリカの歴史において、お決まりのパターンである。
帰りのバスの中で、「苦労の末ハーフドームを制覇したけれど、何かが足りないような気がする。それは一体なんだろう?」と考えていた。
多分、ここには「神さま」がいないんだと思う。日本の場合、どんな小さな山にもいわれがあって、頂上には祠が祀ってあったりする。
もちろん、ここは国立公園としては日本なんかよりずっとよく整備されてるし、自然保護の観点からも見習うべき点は多いと思う。だが、ここはあくまでもレクリエーション(あるいは、生態系の保護)のための公園であって、<神聖な場所>ではないのだ。大体 "Half Dome" という名前からしていかにも薄っぺらで、かつてはミウォーク語のずっといい名前があったんだろうに、そういうのはもう残っていないんだろうか。
バスは再びサンフランシスコに近づいてきた。ところが、高速道路を抜けてベイ・ブリッジに差し掛かった辺りで大渋滞が発生し、橋の上でほとんど動かなくなってしまった。橋の付け根のところで大きな衝突事故があったらしい。
お陰で、ユニオン・スクウェアに着いたのは10時半だった。またもや晩メシを食いそびれ、この日も焼き肉の夢を見ながら眠った。
しかし、サンフランシスコはやっぱり素晴らしいのだ!
翌日、サンフランシスコ空港で思いがけず日本料理屋を発見した。刺身を一口食べたとき、決してわさびが鼻にきた訳ではなく、あまりの旨さに涙が出たね。正直、ハーフドームに登頂したときよりずっと感動したかも。
…そして、私は1年ぶりに日本に帰ってきた。
温帯モンスーン特有の粘りつくような湿気、成田エクスプレスの車窓に広がる田園風景、モザイク状にごちゃごちゃと入り組んだ家並み、列車のホームから溢れんばかりの人の群れ。そういったものにアジアを感じたのも束の間、時差ボケが矯正される間もなく、一瞬にしてまたこの退屈な田舎町の中に埋没していったのだった。
夢のように過ぎ去った8泊9日だった。(03/11/29)