読書日記 2011年

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街道をゆく28 耽羅紀行 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★★★☆

済州島といえば、リゾートのイメージが強く、一人で行くにはしのびない観光地だと思っていた。しかし、本書を読んで、文化的に非常に興味深いスポットであることが分かった。何しろ済州島は、モンゴル高原、バスク地方、アイルランド島、そしてハンガリー平原と並んで、司馬遼太郎が若いころから行ってみたかったという念願の地の一つだったのである。それで、私は済州島に行くことにした(耽羅のくに〜済州島紀行〜)。

香川県ほどの面積をもつに過ぎない済州島は、古代、耽羅という独立国家だった。それが、朝鮮文化によって色濃く塗り重ねられていくのは、李氏朝鮮の時代からである。李氏朝鮮は、1392年に興り、1910年に終わる。500年以上も続いたという、世界史上有数の長寿国家だった。

李朝は中国と同様、科挙によって官僚を採用した。その試験は朱子学をもって唯一の学派とし、それ以外の思想を一切認めなかった。司馬遼太郎は、「このことは、朝鮮史に凄惨な災禍をもたらした」と激烈な言葉で述べている。この点は、本書で何度も繰り返される。

例えば、科挙においては、文章は「八股文(はっこぶん)」とよばれる「愚劣な」形式を備えていなければならなかった。中国では1300年、朝鮮では950年もこんな試験をやり続けていたから、天才が現れず、「すべてが型どおりの盆栽の松」のようになってしまったというのである。ジェームズ・ワットが蒸気機関を発明したころ、同じ時期の朝鮮には荷を引く車さえもなかったという。それに対して江戸期の日本は、キリシタン禁制を除いては、思想的にはずっと自由だった。江戸期における人文科学的な「百家争鳴」という土台があったために、明治期には比較的スムーズに新文化を導入しえたというわけだ。

大航海時代のヨーロッパは15、6世紀に日本を「発見」するが、朝鮮は長いこと「発見」されなかった。17世紀も半ばになってはじめて、オランダ人が朝鮮と接触するのである。難破したオランダ商船が漂着したのが、済州島であった。

済州島はまた、朝鮮において唯一、モンゴルが直接支配したところでもあった。それは、朝鮮の中でここにだけは草原で覆われていたからだ。今日、モンゴル高原の馬は、混血が進んでかつての馬とはかなり異なったものになってしまった。それで、13世紀のモンゴル帝国の馬は、現在は済州島だけに残っている。そしてまた、現在の済州島でモンゴルの痕跡をとどめるものは、ただこの蒙古馬だけであるという。(11/04/18読了)

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