沖縄ノート 大江健三郎 岩波新書 ★★☆☆☆
大江健三郎氏の小説は、学生時代に随分と読んだものだったが、これほどまでに読みにくかっただろうか。もって回った独特の文体は、小説ならば良いのかもしれないが、エッセイにはいかがなものか。ちっとも内容が頭に入ってこないのだ。
ノーベル賞作家にこんなことを言うのも烏滸がましいが、
実際に僕はこの数年、とくにこの一年はよりしばしば、非力な臆病者が痩せた毛脛をむき出しにして見ぐるしい開きなおり方をするような具合に、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、と考えこんでいる自分を見出した。・・・また、ある夜明け方、それは沖縄で生れ、沖縄を生き、その死によってもまた、はっきりと沖縄を提示した、古堅宗憲氏の唐突な死の報に接した朝であったが、僕は自分自身の死について考え、まぢかにその友人の死のような不慮の死が僕を待ちかまえている可能性はおおいにあると考え、それから不意に、その死のいたる時までに、日本人とはなにか、このような日本人ではないところの日本人へと自分をかえることはできないか、という命題に自分だけの答をひきだしていることができるだろうかと、ほとんど死の恐怖と同一の恐怖、無力感、孤立している感覚、ペシミズムに首筋をおさえこまれて考え、みすぼらしい涙を流した。
なんて、きみはいったいなにを主張したいのかね、と悪態の一つもつきたくなるほどに、悪文の典型ではないのか?
本書は、1969年から70年にかけて、氏が「本土復帰」前の沖縄に幾度も足を運び、呻吟しつつ執筆したもので、復帰前の沖縄の雰囲気を垣間見ることができる。とはいえ、具体的な記述はほとんどない。
沖縄の歴史を一言で言えば、日本に併合され、日本人であることを強要され、いざ日本人になってみると、戦争で捨て石にされ、集団自決を命じられ、戦争に負ければ切り離されて敵に渡され、再び日本に「復帰」しても基地の大部分を押しつけられ続けている。
「本土復帰」せず、再び琉球として独立する目もあったはずだが、そうはならなかった。
沖縄で地上戦が行われたとき、琉球王国が併合されてからまだ66年しか経っていなかった。今、それからさらに71年もの歳月が流れた。氏の怒りは届かないまま、半世紀近くが虚しく過ぎ去ったのである。
琉球併合のとき、沖縄戦のとき、米軍による統治時代、沖縄で何が起こっていたのか。改めて、自分が沖縄について何も知らないことに気づかされた。(16/12/16読了 16/12/27更新)