新しい1キログラムの測り方 臼田孝 講談社ブルーバックス ★★★★★
2018年11月、130年ぶりにキログラムの定義が変わる。
新しい定義の施行は2019年5月20日である。その瞬間に、すべてのモノの重さが一斉にほんの少しだけ(1億分の1くらい)変わる──!?
現在の1キログラムの定義は、「国際キログラム原器の質量」である。
キログラム原器は、白金90%、イリジウム10%からなる直径・高さともに約39ミリメートルの円柱状の金属塊である。パリ郊外の国際度量衡局に保存されている。
そこにたどり着くためには、3人の委員が別々に保管している3つの鍵を使って扉を開け、さらに金庫を開けなければならない。年に一度、3人が一同に会してその存在を確認し、3人がうやうやしく顔を見合わせて”Still there”(「確かにまだあるね」)と言う。21世紀のこの時代に、漫画のような儀式を毎年行っているのだという。
ちなみに、つくばの産総研には、キログラム原器の6番目のコピーがある。
このキログラム原器の重さが、100年間で50マイクログラムほど変動していることがわかった。
同じ環境で保管されている6個の副原器の重さが、キログラム原器と比べて相対的に重くなっているのである。(重くなっていたものもあるし、あまり変化しなかったものもあるが、重くなっている副原器が多かった。)
従って、副原器のそれぞれが重くなったか、キログラム原器が軽くなったかのどちらかである。どちらが正しいのかは原理的に判定できないが、いずれにせよ、キログラムの定義は50マイクログラム程度の誤差(不確かさ)を含むということになる。
1キログラムあたり50マイクログラムの誤差は、5×10-8に相当する。
この誤差は、非常に小さいといえる。逆に言えば、100年以上にわたってキログラム原器が現役であり続けたのは、それよりも正確な重さの測定手段がなかったからである。
さて、現在の1メートルの定義は、「真空中で1秒の299792458分の1の時間に光が進む行程の長さ」である。
つまり、真空中の光速 c は
c = 299792458 m/s
であり、これは定義値なので誤差はゼロである。
重さも、c のような基本的な物理定数を使って定義すべきだ、というのは誰もが考えることである。
例えば、電子1個の質量を重さの基準として使えばよいのではないか。
(なお、1メートルの定義の中には「1秒」が入っているから、先に1秒を定義しなければならない。これで問題がないのは、時間の測定は長さの測定よりも桁違いに精密にできるからである。1秒の定義は、「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の9192631770倍に等しい時間」であるが、この測定は10-15という精度で可能である。)
それを実現するためのアイディアとして、次の2つがあった:
(1)アボガドロ数 NA を高精度で測定する
(2)プランク定数 h を高精度で測定する
ここで「高精度で」というのは、現状のキログラム原器の誤差、5×10-8よりも誤差を小さくするということである。
(1)は、直感的にわかりやすい。
アボガドロ数 NA というのは、(現状では)「12グラムの12Cに含まれる原子の数」と定義されている。
この定義の中には、人間が任意に定義した「グラム」が入り込んでおり、かつ12Cという特定の物質に依存しているから、NA は物理定数ではない。単に、ミクロの世界とマクロの世界を橋渡しするための便利な数にすぎない。
しかし、NA を精密に測定するということは、とりもなおさず原子の世界の重さを精密に測定するということである。
もし NA が厳密に定まれば、「炭素原子12Cが NA × 1000/12 個分の重さ」を1キログラムと定義すればよいことになる。
それに対して、(2)はわかりにくい。
もしプランク定数 h が決まれば、ある波長 ν をもつ光子のエネルギーは hν だから、hν/c2 の質量と等価ということになる(c は定義値であることに注意)。
つまり、1キログラムとは、「ある(厳密に定められた)周波数をもつ光子のエネルギーに等価な質量」として定義されることになる。
実は、NA と h は次の式(*)によって理論的に結びつけられている:
・・・・・・(*)
ここで、c は真空中の光速度(定義値)、α は微細構造定数、R∞ はリュードベリ定数である。
α = 7.2973525664(17) × 10−3
R∞ = 10973731.568508(65) m−1
であり、それぞれ10-10、10-12の精度で測定されている。
また、Ar(e) は電子の相対原子質量(12Cの質量を12としたときの電子の相対的な質量)である。この値は
Ar(e) = 0.000548579909069(16)
であり、こちらも10-11の精度で求められている。(質量そのものを求めるより、相対的な質量を求めるほうが易しいのだ。)
最後に、Muはモル質量定数(12C 1モルあたりの重さの1/12)であり、この値は(現状では)1g/molと定義されている。
つまり、(*)の右辺はすべて、10-10以下の精度で定まっている。
従って、NA と h のどちらかが高精度で求まれば、(*)によってもう一方も同じ精度で定まることになる。
ところが、実際にとられた戦略は、(1)と(2)をそれぞれ独立の方法で求め、両者が高精度で一致することを確認する、というものであった。もちろん、そうして得られた値のほうがより信頼性がある。
(1)の測定は、つくばの産総研と、ドイツにある研究所によって行われた。
その方法は、意外に原始的なものである。
測定には、現在の技術で、もっとも純粋で完全な結晶が得られるシリコンを用いる。シリコンは28Si, 29Si, 30Siの3種類の同位体がある。まず、(原爆を作るときに使う)ウラン濃縮の施設を用いて、28Siのみを99.99%まで濃縮する。
次に、濃縮した28Siの結晶を研磨して、できるだけ完全な球形を作り出す。次に、レーザー干渉計を用い、表面を覆う酸化膜の分を補正して、シリコン球の体積をできるだけ正確に測定する。また、シリコン結晶の結晶格子の体積をX線干渉法により精密に測定する。これらの値により、シリコン球に含まれる28Si原子の数を高精度で求めることができた。
そして、シリコン球の重さをできるだけ正確に測定する。28Siと12Cの相対的な質量の比は、10-11の精度で測定されている。
以上の値を用いることで、2 × 10-8という高精度でアボガドロ数を得ることができた。
一方、(2)の測定は、キッブル・バランスという特殊な秤を使って行う。
キッブル・バランスは、重さ(および重力加速度と速度)を電圧と電流という電気的な量と結びつける。電圧と抵抗は、それぞれジョセフソン効果と量子ホール効果を利用して高精度で測定できる。そして、それらの値は、ジョセフソン定数
KJ = 2e/h = 483597.8525(30) × 109 Hz/V
とフォン・クリッツィング定数
RK = h/e2 = 25812.8074555(59) Ω
を介して、それぞれプランク定数と電気素量 e(電子1個のもつ電荷のマイナス)に結びつけられるのである。
こうして得られた値は、
NA = 6.02214076×1023 mol-1
h = 6.62607015×10-34 Js
となった。
上で述べたように、これらの値は、一方が決まれば他方も決まるという関係になっている。
しかし、新たなSI単位系では、これら両方の値を定義値としている。つまり、NA の値でモルを定義し、h の値で質量を定義することにしたのだ。
ちなみに、(2)で得られた e の値は、電流(アンペア)の新たな定義に使われることになった。その定義値は、
e = 1.602176634×10-19 C
である。
(1)で得られたアボガドロ数で質量を定義し、プランク定数は(*)の式から導かれる値とすれば直感的にはわかりやすいが、そうはしなかった。
そうしなかった理由はおそらく、新たに得られた電気素量 e の値を定義値としてアンペアを定義し直すことにしたため、それとの整合性をとるためであろう。
ところが、NA と h の両方を定義値としたことで、(*)の式にしわ寄せが来ることになった。α、R∞、Ar(e) は物理定数だから、NA と h の両方の値が変わったことで、Mu はもはや定義値ではなくなり、1に近い何らかの値となった。
つまり、12Cを NA 個集めた重さは、厳密に12グラムではなく、12グラムに近い何らかの値となる。でも、上で述べたように、アボガドロ数 NA は物理定数ではないただの数だから、これでいいのである。(ただし、化学の教科書は書き換える必要がある。)
しかし、重さの定義にはプランク定数の定義値を用いることにして、モルの定義をそのままにするという手もあったと思う。
SI単位系で基本単位とされる7つは、
長さ(メートル)、質量(キログラム)、時間(秒)、電流(アンペア)、温度(ケルビン)、物質量(モル)、光度(カンデラ)
である。
モルはただの数だから基本単位に入れるのはおかしいような気がするが、さらに異質なのはカンデラである。
カンデラの定義は、「周波数 540 × 1012 ヘルツの単色放射を放出し、所定の方向におけるその放射強度が 1/683 ワット毎ステラジアンである光源の、その方向における光度」であり、他の単位から導かれる量だから、これを基本単位に含める意味がわからない。
そもそもカンデラは、人間が見たときに「感じる」明るさであり、心理的な量である。そのため、もっとも感度が良いとされる波長555ナノメートルの緑色光を基準とし、光の波長に応じて補正を加える。しかし言うまでもなく、見え方には個人差がある。
それに、もし光度を基本単位に含めるのなら、音量や臭気(においの強さ)、痛さなども含めなければならないのではないか。
今回の改訂では、ボルツマン定数も定義値
k = 1.380649×10−23 JK−1
となり、温度はボルツマン定数から定義されることになった。
カンデラとモルを基本単位から外せば、5つの基本単位のすべてが基本的な物理定数に対応することになり、非常にスッキリすると思うのだが。(秒の定義はやや微妙だが・・・)
本書の著者は、世界に18人いる国際度量衡委員の一人。
これまでこの問題について深く考えたことはなかったが、非常に勉強になった。
一冊の本から、これだけまとまった知識が得られるのは素晴らしいことだ。良書だと思う。
参考文献
1. 倉本直樹、東康史、藤井賢一(2015)「基礎物理定数に基づく新しいキログラムとモルの定義 ─キログラム、モル、アボガドロ定数の現在と将来─」ぶんせき 6: 229-236.
2. Peter J. Mohr, David B. Newell, & Barry N. Taylor (2016) CODATA Recommended Values of the Fundamental Physical Constants: 2014 J Phys Chem Ref Data, 45: 043102, DOI: http://dx.doi.org/10.1063/1.4954402
(18/10/28読了 18/10/29更新)