読書日記 2018年

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新書東洋史⑥ インドの歴史 近藤治 講談社現代新書 ★★★★☆

インドの内包する多様性は、瞠目すべきものがある。29ある州のそれぞれが、別々の国とみなせるほどに異なっている。
インドには公用語が22もあり、インドのお札には17の言語で記載があることは周知の通りだ。Ethnologueによれば、インドでは現在、448もの異なる言語が話されているという。

この多様なるインド世界を曲がりなりにも理解しようと思ったら、まずはインドの歴史を頭に入れなければならないだろう。
ところが、インドの歴史を包括的に扱った一般向けの書物というのは意外に少ない。本書は1977年の出版だからかなり古いが、それでも充分に読む価値がある。昔の新書らしく、文章は美文調で格調高く、小著ながら情報量が非常に多い。

インドの地理について概説した第2章がとても有用だった。

 地図帳を取り出し、インドのところを一見すればわかるように、この亜大陸はまるで豊満な乳房のような形をしてインド洋上に突出している。そして、北は峻険な高峰からなるヒマラヤ山脈とカラコルム山脈が屹立して天然の障壁をなし、東北のビルマ国境寄りには世界最多雨地帯につながるアラカン雨林地帯があり、西北のアフガニスタン国境寄りにはいくつかの通過可能な峠をもつスレイマン山脈がある。このように陸上の三方面が山々によってかなり画然と区切られているとともに、また逆三角形状の半島部周辺は打ち寄せる海水によって囲繞されていることがわかる。

つまり、インド亜大陸とはよく言ったもので、インドはそれ自体が一つの宇宙を成しているのだ。

 この多様にして広大なインドが一つの統一した世界をなしているとする考え方は、古くからインド人の間にある。今世紀のはじめ、詩人タゴール(1861-1941)が作成し、独立後インドの国歌に採用された詩『ジャナガマナマ』には、バーラットすなわちインドの一体性がみごとに歌い上げられているが、このような北は万年雪を頂くヒマラヤから、南は灼熱の潮風が吹きやまぬコモリン岬まで、西は乾燥したインダス川流域から、東は湿潤なベンガル湾一帯までをインド世界とする考え方は、非常に古い時代に存在していたのである。

しかしその一方で、インドの歴史において統一王朝は少なく、マウリヤ朝、グプタ朝、ムガル朝ほどしかない。
インドの歴史的世界は、ヴィンディア山脈と、古文献で「マハーカーンターラ」とよばれた森林地帯(ナルバダー川上流からマハーナディー川にかけての一帯に広がる広大な森林)によって、南北両世界にまず二大区分される。
北方のアーリアヴァルタ(「アーリア人の土地」)もしくはヒンドゥースタン(「ヒンドゥーの土地」)はさらに、西部のインダス川流域世界と東部のガンジス川流域地帯の二つに再区分することができる。
これに対して南方世界は、キストナ川とトゥンガバドラー川によってさらに南北に分けられ、両河川以北の高原地帯であるデカン地方と、半島南端部のタミルランド(「タミル人の土地」)に再区分されるのだ。

インド半島部は西高東低になっている。
半島の西海岸寄り、アラビア海沿岸を南北に走る西ガーツ山脈は高く、峻険な山々をかかえ、南端のコモリン峠にいたるまでほとんど切れ目なくつながっている(最高峰はケララ州のAnamudiで2695m)。
それに対して東海岸寄りの東ガーツ山脈は低くなだらかで、切れ目が多い(最高峰はアーンドラ・プラデーシュ州のArama Kondaで1680m)。そのようなわけで、

 西ガーツ山脈上で東面して石塊をころがり落せば、その石塊はのろのろところがりながら東方に向い、東ガーツ山脈の切れ目のところを横切り、コロマンデル海岸をへてベンガル湾にポシャリと落ちこむのではないか、と冗談にもいわれるほどである。

だから、ガンジス川をはじめとする、半島部を流れる長大な川は、すべて東流してベンガル湾にそそぐのである。

* * * * *

インド史はモヘンジョダロ、ハラッパーの遺跡で有名なインダス文明より始まるが、このインダス文明を築いた人々がどのような人であったのかは、未だにわかっていない。インダス文字も依然として未解読のままである。
インドの古代においては、肥沃なパンジャーブ地方に侵入してきたアーリア人が建てた十六国が四つの強大化した領域国家に統合され、やがてその中からマガダ国が最強国として頭角を現してくる。この時代に登場したのが、仏教という革命的思想であった。
続いて、アショーカ王で有名なマウリヤ朝、アジャンターの石窟を築いたグプタ朝という二つの古代帝国の時代となる。

6世紀半ばにグプタ朝が崩壊すると、インドは分裂と抗争の時代に突入する。
インド史にとって、1192年のタラーインの戦いがきわめて重要な意味をもつ。アフガニスタンに興ったゴール朝のムハンマド率いるイスラム軍が、ヒンドゥー連合軍を打ち破ったのである。
この後、インドの「南北朝時代」において、北インドはイスラム王朝によって支配され続けることになる。
やがて南インドの諸王朝もイスラムの軍門に降りていき、ついにはムガル帝国の出現をみる。
ムガル朝の太祖であるバーブルは、父方はティムールの血を引き、母方はチンギス=ハーンの血を引く。「ムガル」とはアラビア語で「モンゴル」のことだ。
インドは何百年もの間イスラム王朝によって支配され続けたにもかかわらず、インド自体は決してイスラム化されなかったというのが面白い。

ムガル朝五代目のシャー=ジャハーン帝が愛妃の死を悼んでタージ=マハルを築いたように、インドは本来豊かな国である。
しかし、インドの近代は、イギリスによって簒奪され、植民地社会へと転落させられた歴史であった。それは、「輸血をいっさいせず、ただ一方的に太い注射器を打ち込んで血を抜きとりつづけていくに等しい」(P. 177)ようなものだった。
紙面の都合により、本書はここで唐突に終わる。植民地社会としてのインドと、そこからの脱皮を目指す民族闘争の歴史がいかなるものであったかについては触れられていない。しかしそれでも、インド史の大まかな流れをたどるには充分であろう。(18/11/17読了 18/11/20更新)

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