間違いだらけの文章教室 高橋源一郎 朝日文庫 ★★★★★
少しばかりだが、文章を書くようになると、自分の言葉を紡いで、もっと巧い文章が書けるようになりたいと切実に思う。
世の中に「文章読本」「文章教室」と題する本はたくさんある。いわゆる文豪と呼ばれる人たちも、そういう本を書いている。
この本は、巷に溢れる「文章教室」なんて間違いばかりだ、ということを言いたいのかと思った。
でも、そうではなかった。
著者の文体は独特である。
まず、読点が多すぎる。そして、まるで小学生にでも語りかけるように平易である。
とても真似できそうにないが、これが、著者の到達した「読者の目を見て書く」という境地だろうか。
最初に出てくる例文で、ガツンと来る。
明治24年、群馬県の貧しい農家に生まれた、木村センが書いたものだ。
いわゆる「文章読本」のお手本になるような文章とは対極にある。それでいて、心を打つ。それはなぜだろうか。
言葉は武器である、という。確かに、紙にこびりついたインクのしみに過ぎないはずなのに、時として文章には、人を深淵に引きずり込む、有無を言わせぬ力がある。
スティーブ・ジョブズの講演、多田富雄、朝吹真理子、文章教室の人、夢を諦めたフリーターの青年、そして鶴見俊輔の随筆、例文として取り上げられたものは、どれも印象的だ。
でも、この本に、巧い文章を書くコツを期待しても無駄である。だからこそ、「間違いだらけの文章教室」なのだろう。
結局、良い文章を書くためには、色んな文章を(上手な文章も下手な文章も)たくさん読むしかないのだ。
あえて著者のメッセージを汲み出すとしたら、「壇から降りる」ということだろうか。これは、エッセイならばともかく、ある種教科書的な、科学的な読み物を書く上ではとても難しい注文である。だが、心に留めておくべきことだ。
最後の章は、著者が学生と一緒に東日本大震災の被災地に赴き、「吉里吉里国憲法前文」を書くという話である。
なんだか青臭い。この章は、蛇足なのではないかと思った。
でも、そうではなかった。
意外なことに、この章を読み進めていくにつれ、涙が溢れてきた。
特に、当時大学二年生だった小松結衣さんの書いた作品の、最後の3行が良い。
最後に、憲法とは銘打っているけんども、
わすら吉里吉里国民全員が前向いて生きていける国になれば
それで幸せと思うんだず
(20/03/15読了 20/03/15更新)