本の中の世界 ★★★★☆ 湯川浩樹 岩波新書
湯川博士の教養の重厚さは、格が違う。今後、このレベルの研究者は、日本には金輪際現れないだろう。
なにしろ、小学校入学前から、祖父について『大学』『論語』『孟子』『史記』などの漢籍の素読をさせられたというのだ。
今、愛読書が『荘子』だという中学生がいるだろうか。個人の愉しみとして、近松の浄瑠璃や江戸時代の橘南谿の紀行文を読む人がいるだろうか。「詩」ときいて、まず『唐詩選』の五言絶句を思い浮かべる人がいるだろうか。韓文公の「于襄陽に与うる書」を「大変な名文」と讃えられる人がいるだろうか・・・。
湯川博士は自ら和歌も詠み、書も嗜む。代表作は、
雪近き 比叡さゆる日々 寂寥の きはみにありて わが道つきず
である。
本書は1963年に刊行された。私たちが今読むべき本の大部分はそのとき存在しなかったとはいえ、もっと他に紹介する本はなかったのかと訝るほどの、渋すぎるラインナップになっている。
本の内容の紹介だけでなく、物理学者としての自らの体験に寄せてあるのもいい。
湯川博士は、戦前の昭和14年にドイツに渡っている(もちろん、船旅である)。それは、森鴎外が『舞姫』の中で、ベルリンの町並みに驚き目を見張った50年後のことだった。
プリンストン高等研究所では、アインシュタイン博士の自宅をたびたび訪れて四方山話をした(アインシュタインは湯川秀樹の28歳年上)というから、まったくレジェンドなのだ。
湯川博士は日本人初のノーベル賞受賞という栄冠に輝き、これ以上ないほど成功した人生を送ったように思える。だが、その人生は、絶えず深い厭世観に包まれていた。
その時に自分のやっていることが非常に無意味なことであり、この世は全く空しいものだという気持が、私の心を占領した。
・・・やっぱり私が[外国に]行かなければならない羽目になりまして、行きたくもないのに一生懸命旅費まで工面して出掛けて行く。そしてその結果はどうですか。外国に暫く滞在している間ほど自分を不幸だと思うことはありませんね。
これが50過ぎて書かれたものであることを思うと、この厭世観は果たして老荘思想の影響だけで説明できるものなのかどうか。(21/07/13読了 21/07/18更新)