街道をゆく11 肥前の諸街道 ★★★★☆ 司馬遼太郎 朝日文庫
長崎がポルトガル領──あるいはローマ教皇領──だったことがあったとは、ついぞ知らなかった。だから、マカオのように、20世紀まで長崎がポルトガルの植民地だったという世界線もありえたのだ。
しかし、そこに歴史の妙がある。
ポルトガルが日本にやってきた頃、本国はすでに衰退しつつあった。長崎が割譲されたちょうどその年(1580年)、ポストガルはスペインに併合され、スペイン王フェリペ2世がポルトガル国王を兼ねることになる。
イエスズ会はもっとも戦闘的な布教集団で、九州の大名たちに対して、改宗しなければ貿易することを認めなかった。イエスズ会は、領内の神社仏閣を一軒残らず焼き払った。
その7年後(1587年)、秀吉は九州を統一する。
長崎の状況を知って激怒した秀吉はバテレン追放令を出し、キリシタンを苛烈に弾圧することになる。それは、賢明な判断だったと思う。
それに対し、江戸幕府がオランダに交易を許したのは、オランダがプロテスタントの国だったからだ。
カトリックは国家の宗教だが、プロテスタントにとって信仰は個人の問題である。だから、オランダは宗教と商売を切り離して考えていた。
もっともオランダとしても、当時の日本は金の価値が低かったから(ヨーロッパの3分の1程度)、牢獄のような出島に閉じ込められていても充分に旨味があった。オランダは日本と交易するに際して、金で売って銀で買うだけで莫大な利益を得たのである。
その結果、江戸期に日本の金はすべて海外に流出してしまった。
でも、だからこそ細々とでも海外への窓が開き続けていたわけであり、それを思えば安い出費だったのかもしれない。(25/04/24読了 25/05/24更新)