2004年 42冊

(★〜★★★はお薦め度
「医の現在」 高久文麿 編 岩波新書

    立場上、医学と医療の現状も知っておかなければならないだろうと思って読んだ。老化やガンから経済、法律まで幅広くカバーしているけれども、こういう各章が別々の著者によって書かれた本ではありがちなことだが、記述があまりにも教科書的・優等生的で楽しめなかった。スミマセン。

    惜しくも去年の記録に届かず…。日本に帰ってきてから、通勤時間にコンスタントに本を読めるようになったのはいいが、その反面、大作に手を出す勇気がなくなってしまった。('04.12.26)

「ルポ 現代の被差別部落」 若宮啓文 朝日文庫 ★☆

    東京生まれ、東京育ちの私は、部落差別について学校で教わったことは一切ない。この問題がマスコミで取り上げられているのも見たことがない。アメリカの黒人差別とは違って、外見では区別の付きようがないのだから、人の移動が当たり前となった現在において、この問題はやがて消滅する運命にある。しかし、「寝た子を起こすな」とは言うけれど、無知こそが差別と偏見を生むのであって、「負の歴史」を正しく伝えることも必要であると思う。

    こういう本はなかなか貴重であるが、被差別部落の現状を知る上では、本書は少々物足りなかった。第1に、この取材がなされたのはもう30年も昔のことであり、その後の追跡取材からも既に15年以上が経過している。第2に、これは信州の農村部での話である。信州の被差別部落は戸数も少なく散在していて、彼らの祖先の多くは長吏、つまり一種の警察官であったという。これが典型的な被差別部落であるとは思えない。('04.12.20)

「蹴りたい背中」 綿矢りさ 河出書房新社 ★☆

    つまらなくはないが、面白くもない。確かにちょっと新鮮な言葉遣いはあるけど、これがウワサの本でなかったら、わざわざ読むほどのものでもないだろう。前作『インストール』の方がずっと面白かった。審査員のセンセイ方は、この作品のどこが芥川賞に値すると評価したのだろうか?少なくとも、今後何十年も読み継がれる名作であるとは到底思えない。

    それにしても僅か9ヶ月で218刷というのはナンなんだ!?('04.12.6)

「新ネットワーク思考」 Albert-László Barabási NHK出版 ★★☆

    ポストゲノム生物学の世界でしばしば話題になる、「スケールフリー・ネットワーク」についてのとても分かり易い解説書。スケールフリーとは、あるリンク数もつノードの数がベキ分布に従うということで、要するに系を特徴づける大きさ(スケール)がないということだ。それに対し、ランダムなネットワークの場合は、リンク数に対するノード数の分布はガウス分布になる。スケールフリー・ネットワークは、インターネット、蛋白質相互作用、性交渉の相手など様々な局面に現れる普遍的な構造である。

    著者はいわばこの分野の生みの親で、まだ30代の気鋭の研究者である。サイエンス・ライターとしての腕前もなかなかのものだ。

    難を言えば、この日本語版はタイトルが悪すぎる。これではコンピュータの本なのか、ビジネスの本なのか、さっぱり分からない。少なくともこのタイトルにはサイエンスの香りがしないので、本屋さんで手に取ってもらえないだろう。英語版は "LINKED: The New Science of Networks" なのだが、これをどうこねくり回したら『新ネットワーク思考』になるのだろうか。『小さな世界─ネットワークの新しい科学』とでもしたらどう?('04.12.1)

「読書力」 齋藤孝 岩波新書 ★★

    「何故読書をしなければならないか」ということについて、著者がアツく語る。著者は、「読書してきた人間が『本は読まなくてもいい』というのはファウル」という。そんな風に考えたことはなかったが、読書が自分に与えてくれたものの大きさを鑑みれば、著者の主張はもっともだと思う。

    読書の楽しみは、知識が相互にリンクされて、ネットワークが形成されていくことに尽きる。(著者は「本は、本の連鎖を生む」と言っている。)それは、一つの山に登ったとき、その頂から見える別の山に次に登ってみたくなることに似ている。知識のネットワークは自己組織化されていく性質をもっているから、ひとたびこの状態に入り込めば、あなたはもう読書ワールドから抜け出せなくなるだろう。しかし、いみじくも著者が「読書はスポーツである」と言っているように、そういう段階に到達するためには多少の基礎体力が必要なのだ。

    本書自体は、著者の言うところの「読書力の基準としての新書50冊」に加えるのが憚られるような、精神の緊張を伴わない平易な本である。読書の秋(この言葉自体死語になりつつあるが)、少しヘヴィーな本に挑戦してみるのもいいかもしれない。('04.11.23)

「ドキュメント 屠場」 鎌田慧 岩波新書 ★★☆

    私はかつて、芝浦の屠場に、実験で使う内蔵を買いに行っていたことがある。当時の私は、屠場と被差別部落との歴史的な結びつきなんてことは知らなかった。それでも、「どういう事情があるのか知らないけど、こういうところで働かなければならないのは気の毒だ」と思っていた。それが(差別ではないにせよ)偏見というものなのだろう。

    本書によれば、屠場というのは、今時珍しい、熟練の技を要する誇り高き職場なのだという。霜降りの和牛を育てる畜産家は、「仕事人」などと呼ばれマスコミで持ち上げられる。しかし、そこから綺麗にパックされた肉がスーパーに並ぶまでのプロセスは、意図的に隠蔽されているかの如く、すっぽりと抜け落ちているのだ。本書にも書いてあったが、テレビのドキュメンタリー番組で屠場の仕事をきちんと紹介してくれれば、この仕事に対する偏見も少なくなるだろうと思うのだが、いかがなものか。('04.11.14)

「ヒジュラ」 石川武志 青弓社 ★★☆

    「女でもなく男でもない、聖にして俗、神につかえ、石のつぶてを浴び、春をひさぐ者──ヒジュラ。」こういう興味をそそられる文が表紙に書いてあって、期待しながら読んでみると、要するにヒジュラとは性同一性障害の人たちらしい。青年期に、自分の性に違和感を覚えると、去勢してヒジュラになるというのだ。ヒジュラは元来はシャーマンのように見なされていたということで、近代化される以前の社会において、こういう人たちに対する受け皿が用意されていたというのは興味深い。文化人類学の格好のテーマだろう。例えば、江戸時代の日本にこういうコミュニティーはあったのだろうか?('04.11.10)

「パタゴニア探検記」 高木正孝 岩波新書 ★★

    この日本・チリ合同のパタゴニア探検がなされたのは1958年のことだから、もう半世紀近くも昔の話なのだが、こういうのはいつまで経っても古くならない。著者らが登頂した処女峰アレナーレスは標高3437メートルというから、山としてはそんなに難しくないのかもしれないが、前人未踏の大氷河地帯を踏破しなければならないので、そこまでのアプローチが大変なのだ。探検を共にしたチリ人との心の交流が印象深い。

    残念ながらこれは遺稿であって、著者自身の手によって最終的な形にまとめられたのではない。著者は、南太平洋を調査中、タヒチ島近海で甲板から忽然と姿を消したというのだ。それは、山男が海に行ったからなのか。('04.11.7)

「アシモフの科学エッセイ<12> 真空の海に帆をあげて」 Isaac Asimov ハヤカワ文庫 ★☆

    これは、今までに読んだ本シリーズの他の巻に比べると面白くなかった。アシモフは、Fantasy and Sicence FictionとAmerican Way(アメリカン航空の機内誌)という二誌に科学エッセイを連載していたのだが、本書は後者の連載をまとめたものである。未来予想に主眼があるのだが、あんまり当たっていないし、今読む価値は少ないかも。一つ一つの話が短いので、思考が分断される電車の中で読むにはいい。('04.10.15)

「あゝ野麦峠」 山本茂実 角川文庫 ★★★

    明治時代の女工たちの生き様を生き生きと描き出した、ノン・フィクションの金字塔である。この本がなければ、彼女たちの青春の記憶は永久に歴史の闇に葬り去られるところだったろう。著者は何百人もの老婆に直接会って話を聞いたのだが、本書は民俗学的にも貴重な記録である。例えば──

    糸は切れ役ワシャつなぎ役 回る検番怒り役

    本書が刊行された昭和43年当時、明治はまだそんなに遠くはなかったのだ。或いは江戸時代の生き残りだっていたかもしれない。うちのバァさんは明治最後の年に生まれたんだが、今年もう93歳だから、今や明治時代の記憶は完全に失われようとしている。人類の記憶なんて、この程度のタイム・スパンでしか直接には継承されないのだ。

    女工哀史、というけれど、本書を読んで救われる気がするのは、かつての女工たちが当時を肯定的に語っているからだ。もちろん想い出は美化されるし、本当に悲惨な目にあった人たちは、もうとっくに死んでしまっていたのかもしれない。当時は人権なんて考え方はなかったし(或いは本書が刊行された時代にもあんまりなかったかも・・・)、病気になれば簡単に捨てられた。それでも、当時の庶民は誰もが圧倒的に貧しかったから、飛騨で百姓をしているより糸引きの方がよっぽどマシだった、というのは本当なんだろうと思う。('04.9.25)

「十津川街道 街道をゆく12」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★

    帰国するに際して、なにか日本的なものを読みたくなったので、この辺のやつは船便の荷物に詰めずに持ち帰ったのだ。

    十津川郷は、都にほど近いにもかかわらず、秘境であり続けた。まるで中国雲南省の山岳地帯に住む苗族のように、一種独立国家のような体裁を保っていたという。それを現代の十津川人にまで敷衍してしまうところがいかにも司馬遼太郎である。('04.9.11)

「目に見えないもの」 湯川秀樹 岩波学術文庫 ★★

    これも飛行機の中で読破した。薄いので一瞬にして読み終わる。

    これらの随筆が書かれたのは大体昭和15年から20年の間である。戦時中にあって、呑気に(?)理論物理学について論じていたというのは驚くべきことだ。印象的なのは著者の謙虚さで、自分を上手くアピールすることが美徳とされている現在、もうこういう科学者は絶滅してしまったのだろうか。行間から立ち昇ってくる格調高さといい、とてもこれが30代に書かれたものとは思えない。('04.8.30)

「黄金時代」 椎名誠 角川文庫 ★☆

    まぁ青春小説といえばそうかもしれないけど、今更ケンカのやり方を教えられても・・・。これといったストーリーもなくて、あまり印象に残らなかった。2年間の留学生活を終えて、いよいよ日本に帰国する飛行機の中で読み終えたのがこれ。('04.8.30)

「単独発言」 辺見庸 角川文庫 ★★

    副題は、「私はブッシュの敵である」。筆者の主著は100%正しい。にもかかわらず、オリンピック開催中の今も、米国はイラクやアフガニスタンで人々を虐殺し続けている。「(バーミアンの)仏像は、恥辱のために崩れ落ちたのだ。アフガニスタンの虐げられた人びとに対し世界がここまで無関心であることを恥じ、自らの偉大さなど何の足しにもならないと知って砕けたのだ」という言葉は心を打つ。しかし、アフガニスタンのことなど、みんなもうとっくに忘れてしまっているだろう。怒りにはエネルギーが要る。結局、言論の無力さを感じるばかりだ。('04.8.21)

「多文化世界」 青木保 岩波新書

    論旨が不明確。著者は文化人類学者である。文化人類学では、あらゆる文化を相対的に捉え、その間には優劣はないとする。これは、自国の利益のみを追求することを目的とする、国際政治の戦略論とは対極にある考え方である。にもかかわらず著者は、「ソフト・パワー」なるいかがわしい国際政治論の言葉を持ち出してきて、それを文化に適用しようとする。しかし、文化は競争すべきものなのか?なぜ自国の文化を積極的に外国に広めなければならないのか。それこそ帝国主義的ではないか?そもそも文化は国家が規定するものではない。著者の言う「文化力」が何を指すのかも曖昧である。立派なコンサート・ホールを造ってモーツァルトの協奏曲を演奏すれば、それで文化力が高いことになるのか?

    マクドナルドやハリウッド映画は優れているから世界中で好意的に受け入れられ、その結果アメリカのイラク侵略もある程度の支持を得ることができるだなんて議論は、正気の沙汰とは思えない。('04.8.10)

「メッカ」 野町和嘉 岩波新書 ★★★

    これは素晴らしい。200万人もの人が、誰に命令されることもなく自発的に、同じ目的をもって整然と一つのことをする、こんな光景が地球上にここ以外にあるだろうか?そもそも聖地メッカは異教徒の入域を厳しく禁じているし、イスラームは偶像崇拝に通じる写真撮影をひどく嫌うので、本書はムスリム写真家である著者にしか作り得なかった、稀有の写真集なのだ。写真は小さいながらも圧倒的な迫力があり、しかも美しい。

    ムスリムは世界に12億人もいる。中国と並んで、世界最大の文明の一つであろう。これだけ多くの人が巡礼できるのも、人間の移動が容易になった現代ならではのことだ。イスラム圏各国には専用の旅行会社があって、誰もが聖地巡礼のパッケージ・ツアーに参加しなければならないという。巡礼者たちは、1年のうち数日しか使われることのない、冷房の効いた快適なテント村に宿泊したりしながら、決められたコースに従って一斉に移動するのだ。これは、我々のほとんど知ることのない、もう一つの現在の世界の姿なのである。

    メッカ、メディナという2大聖地を擁するサウディアラビアが世界最大の産油国であるという事実は、確かにアッラーの思し召しによるものかも知れない。そのお陰で、壮大なモスクは総大理石張りに美しくしつらえられ、何百万もの巡礼者に無料で食べ物を振る舞うことができる。しかし、カネは人を腐敗させ、堕落させる。現代世界においては、実は石油を持っているものが最強だろう。そうであれば、サウディアラビアは何も親米的に振る舞う必要はないはずだ。にもかかわらずサウディアラビアが親米的なのは、この国には民主主義というものが一切存しないからではないか。つまり、アメリカと親しくしてさえおけば、万一クーデターが起こってもアメリカが必ず介入してくるので、サウド家の絶対王政は安泰という訳だ。こう考えると、サウディアラビアにおいて原理主義が擡頭するのも頷ける。('04.8.3)

「「民族」で読むアメリカ」 野村達朗 講談社現代新書 ★★

    これは分かり易いアメリカ史の本だった。もっと早く本書を読んでおくべきだったかもしれない。1980年の統計だが、アメリカのエスニック集団としては、イングランド系・ドイツ系・アイルランド系がほぼ20%ずつということだ。しかし、アメリカに住んでいて、ヨーロッパ系白人のエスニック集団による違いを認識することは全くなかった(例外はアーミッシュ)。本書は1992年の発行なので、残念ながらデータはかなり古くなってしまっている。('04.7.29)

「民族とは何か」 関曠野 講談社現代新書 ★☆

    かなり難解な本だった。西洋史に精通していないと、なかなか読みこなすのは難しい。

    本書では、「民族」をnationの訳語として使っている。つまり、「近代国家」みたいな意味である。で、この人は、「民族の存在は事実ではなく、歴史的な観念である。国家が民族に先行するのだ」と言うけれど、民族を上のように定義すれば、これはトートロジーじゃないか!?しかし、これは混乱をきたす使い方だと思う。英国が最初の民族国家だ、と言われても、英国にはスコットランド人もウェールズ人もアイルランド人もいるのだから。

    民族というのは、まさに本書の言う通り「言語・歴史・文化を共有する人間集団」のことで、政治的な意味合いは含まれないと思っていた。「少数民族」とか「アイヌ民族」という言葉があるし、「中国には56の民族がいる」と言ったりする。しかし一方、ニューギニアのような部族社会において、例えばエンガ語の話し手を「民族」とは呼ばないような気がする。こうしてみると、確かにこの言葉は微妙に政治的である。そういう訳で、人類学では民族という言葉を避け、"ethnic group"などと言うのだろう。では、その"ethnic group"を本書では何と呼んでいるかというと、「種族」というこれまた聞き慣れない奇妙な言葉を使っている。これじゃまるで余所の星の住人みたいだ。

    最終章の「日本人は民族たりうるか」は面白い。一般に、明治維新というのは日本を近代国家に生まれ変わらせたものとして肯定的に捉えられている。しかし本書によれば、それは、開国の混乱に乗じてたまたま成功した、理念なきクーデターに過ぎなかった。近代化に着手したのは開国に方針を転換した徳川幕府だった。政治的にも諸大名による合議制に移行しつつあったし、そもそも徳川慶喜は大政を朝廷に奉還していたのだから、薩長は幕府を討つ正当な理由は何も持っていなかった。「無理が通れば道理が引っ込むとはこのことである」と著者は言う。この理念なき明治国家は、自らの存在を正当化させるために、国体論をもち出して来ざるを得なかった。そして結果的に、破滅的な戦争へと突き進んでいったのだという。

    それにしても、最近の世界の状況を見ていると、本書のごとき政治学的な分析がいかに無力であるかと思わされる。人類は、どうしてこうも政治が下手なんだろうか。('04.7.25)

「ニュートリノ天体物理学入門」 小柴昌俊 講談社ブルーバックス

    う〜んいまいち。ノーベル賞受賞者にこんなことを言うのも烏滸がましいが、格調低すぎ。デスマス体を使えば分かり易くなったような気がするというのが大きな誤りで、却って煩わしい。それを差し引いても、実に読みでのない本だった。ニュートリノ天文学自体は面白いはずなんだが。('04.7.19)

「敬語はこわくない」 井上史雄 講談社現代新書 ★★

    この本の題名はよく考えられている。一見「社会人のための正しい敬語の使い方」のような印象を与えるけど、そのココロは「『日本語の乱れ』なんてものはそもそも存在しない。みんなが使っていればそれが正しい日本語だ」である。「ら抜き言葉」など日本語の乱れとして槍玉にあげられるものは、実は方言(非東京方言)起源であることが多い。だから、言語相対主義の立場に立てば、「正しい日本語」なんてのは東京方言の押しつけに過ぎない。(それより、マスコミが煽っている醜悪なカタカナ語の氾濫の方がよっぽど問題だ。)個人的には「〜させていただく」という表現が気になっていたのだが、これが関西起源と知って妙に納得。なぜか、新しい表現は西から発生して東に広がるらしい。

    「敬意低減の法則」と「敬語の民主化」は世界の言語に普遍的に見られる現象らしい。日本語以外の言語との比較については、是非とも論じて欲しかった。例えば、英語における(広義の)敬語表現など。(「敬語」というと日本語や韓国語に特有の体系だと思われるかもしれないが、結局は相手との「間の取り方」に他ならないのだ。)新書だから紙面の制約があるとはいえ、その点が少し物足りない気がした。('04.7.17)

「文学部唯野教授」 筒井康隆 岩波書店 ★★☆

    筒井康隆の小説は、大学生の頃結構読んだけれども、例えば文字を2次元的に配列してみたり、前衛的な作品が多かった。これも、なかなか画期的な作品であるかもしれない。

    この小説は、唯野教授の文芸批評に関する講義と、大学教授のアホらしい生態を揶揄した物語の部分からなる。前者は、現代思想入門としてもう一度じっくりと読んでみたいと思う。しかし、今はそれどころではない・・・。この講義は、ソシュール以外の部分は学問的に正確であるようだが、シニフィアン - シニフィエ騒動というのが何なのか気になる。そもそも小説の中で文芸批評を論ずること自体自己言及的で、まるで"Gödel, Escher, Bach"を思わせるような(読んでないけど)何とも不思議な構造になっている。

    後者は、アホらしくも面白い。文系と理系では違うはずだし、いくら何でもここまでアホらしくはないと信じたい。ところで、ラストはちょっといいではないか。結局、他人の書いた文章をこねくり回してウダウダ言っているよりも、自分で作品を創造した方がよっぽどシアワセだよってことだね。('04.7.12)

「色のない島へ」 Oliver Sacks 早川書房 ★★☆

    現在ミクロネシア連邦に属するピンゲラップ島は、全色盲の島である。「色のない島」とは言っても、島民全員が色盲という訳ではない。この本が書かれた当時、700人余りの島民のうち57人が全色盲であった。先天性の全色盲は10万人に1人程度だから、もちろんこの比率は異常に高い。全色盲は赤緑色盲と違って、視力自体が低く、眼振があり、太陽の光に弱い。なぜピンゲラップ島でこんなことが起こったかというと、約200年前に島を襲った台風によって人口が20数人にまで減ってしまい、強烈なボトルネック効果が働いたからだ。

    著者は、クヌートという全色盲の視覚研究者と一緒にこの旅に出掛けている。クヌートが、ピンゲラップ島の全色盲の子供たちと初めて出会う場面は印象的である。

    後半の物語の舞台は「ソテツの島」、グアム島である。この島には特異な神経病が存在し、その原因としてソテツの種の毒、サイカシンが疑われたことがあったが、今もって原因は不明である。現在ではもう新たに発病する人はいないので、この病気は消え去る運命にあるという。ちなみにソテツ(cycads)は、イチョウ(Ginkgo)、球果植物(conifers; マツ、スギなど)、マオウ(Gnetales)とともに裸子植物に属する。ソテツはヤシとよく似ているが、こちらは被子植物で、進化的には両者には何の関係もない。

    太平洋の島々というと楽園を想像しがちだが、現状は楽園からはほど遠い。ジョンストン島は米軍の核実験場であり、オレンジ色の煙の立ちこめる、有毒物質に汚染された場所である。水爆実験の行われたロンゲラップ環礁ではピンク色の雪が降り、いまだに人が住むことができない。グアム島も、島の多くは米軍基地によって占められ、核物質の貯蔵庫がある。結局、白人によって蹂躙され続けてきた先住民の悲惨な歴史と現状、失われゆく固有の文化と言語というお決まりの物語があるだけで、決して希望を感じることはできないのであった。そして、忘れてはいけないことは、ピンゲラップ島もグアム島も日本領だった時期があるということだ。日本軍はハワイに引き続いてグアム島も爆撃したが、犠牲になったのは、チャモロ人だった。('04.6.30)

「フラミンゴの微笑 (上)(下)」 Stephen Jay Gould ハヤカワ文庫 ★★

    グールドのエッセイの凄いところは、それぞれが、それ自体が論文と言ってもいいほどに新しい内容を含んでいることだ。その点で、専門家が素人に向けてかみ砕いて説明したような、あるいはサイエンス・ライターによるジャーナリスティックな「ポピュラー・サイエンス」とは一線を画している。

    グールドは、今日顧みられることのない、歴史に埋もれてしまった科学者にスポット・ライトを当てる。今日的な視点から見れば、彼らのやったことはばかげているが、当時の文脈からすれば大いに意味のあることだった──というメッセージが繰り返し現れる。「科学史」というと、ニュートン、ダーウィン、アインシュタインといった巨人たちを思い浮かべる。しかし、科学の歴史の大部分は、忘れ去られてしまった人々の小さな一歩の積み重ねによって作られたのだ。日本の科学が未だに薄っぺらな気がするのは、我々はこの「その他大勢」の部分を決して知り得ないからではないか。

    このエッセイ集が今まで読んだものに比べて少し面白くないのは、生き物についての話題が少ないからだ。グールドは癌を患って、本書はその闘病中に書かれたということだが、そうするとどうして博物学の古典を読み解くエッセイの比率が高くなるんだろう。また本書には、「作品100番」と称してグールドの「専門」であるケリオンという貝の分類についての話が収められているが、これはまたとても地味な研究だった。('04.6.28)

「堕落論」 坂口安吾 角川文庫

    つまんねーな、これ。「堕落論」というからもっと退廃的な奴を期待していたんだが、彼のいう「堕落」とは、「伝統なんかクソ食らえ、心の赴くままに生きよ」ということらしい。まぁ、昭和21年当時にはこれは価値があったのかもしれないが。それでも、本書の前半は大戦前後の風俗が分かるという意味で面白いが、後半は太宰治や志賀直哉、小林秀雄への悪口が延々と続くのみで、はっきり言ってどうでもいい。('04.6.6)

「つくられた障害「色盲」」 高柳泰世 朝日文庫 ★★

    私が小学生の時は、あの悪名高き石原式検査表による色覚検査が衆人環視のもとで行われた。どうしてこんな当たり前のテストをするんだろう、と思ったけど、クラスに一人、真っ赤な顔をして、立ちすくんでいる少年がいた。あの時の彼の、困惑しきった表情が忘れられない・・・。

    問題は、石原式検査表は感度が高すぎるということだ。石原式が読めなくても、実生活には何ら支障のない人が沢山いるのだ。石原式のせいで人生を狂わされた人もいる。石原式を丸暗記して大学医学部の入試を突破した強者もいる。それにしても、つい昭和60年頃まで、多くの大学で色覚に関する入学制限があったとは驚きである。しかし、著者らの努力の甲斐あって、時代は大きく変わった。2003年、義務教育における色覚検査は一切廃止になった。

    3色色覚は、旧世界ザルが新世界ザルと分岐した後で獲得したものだが、それは、樹木中の果実を見付けるのに有利だったためという(まことしやかな)説がある。すると、森から出たサルであるヒトに関しては、もはや2色色覚に対する負の淘汰が働かなくなったことは理にかなっている。・・・と思ったが、世の中には色盲のボスザルというのもいるらしいので、事態はそう単純ではないかもしれない。('04.5.31)

「中国・蜀と雲南のみち 街道をゆく20」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★

    本書に登場する成都(四川省)の武候祠(諸葛孔明の墓)と杜甫草堂は、訪れたことがある。しかし、「三国志」を読んでいなかったのと、憧れのチベットを訪れた後だったので、ほとんど印象に残っていない。一方雲南省は、随分前から潜入を目論んでいるにも拘わらず、未だに果たせないでいる。そうこうしている内に雲南省も漢化されてしまうのではないかと危惧している。('04.5.27)

「What Evolution Is」 Ernst Mayr Basic Books ★★

    この本の何と言っても凄いところは、著者が97歳のときに書かれたということだ。1904年に生まれたエルンスト・マイアは生物学的種概念を提唱した進化生物学の大御所で、今年100歳を迎えるが今なお現役である。恐るべし。本書は、寝ころんで読めないこともないが、ほとんど教科書である。我々にとって生き物の名前が難しいのは致し方ないが、専門用語以外の部分にも必要以上に難解な単語を使っていて、通読するには根気が要る。

    ダーウィンが成し遂げたことは、大まかに言って(1)生物が進化することを科学的に示したこと、および(2)進化のメカニズムとして自然淘汰を提唱したこと、である。このうち、(1)を疑う日本人はまずいないだろう((2)に関しては、無数のトンデモ説が跋扈しているが)。しかし、アメリカには創造論者と呼ばれる興味深い人々が少なからず存在するので、本書の最初の部分では進化が実際に起こったことの証拠がいくつも挙げられている。言われてみれば、身の回りの自然を眺めてみて、進化を納得することはそう容易ではない。キリスト教は反進化的であるのに、なぜ進化論は西洋に起こったのか、と思っていたけど、日本のようなちっぽけな自然をいくら眺め回したところで、科学としての進化思想は出てこないんだと思う。地球規模での観察が必要だったのだ。(2)の自然淘汰というのは確かに超画期的なアイディアで、この歳になってやっとダーウィンの偉大さが分かってきたような気がする。('04.5.21)

「子どもと自然」 河合雅雄 岩波新書 ★★

    著者は署名な霊長類学者。育児に正解はないが、サルを観察することによって、人間のあるべき子育ての仕方が見えてくるというのは面白い。霊長類は、熱帯雨林の樹上生活に適応した唯一の目(order)である。だから、人は緑の中にいると心が安らぐ・・・のか。('04.5.16)

「アシモフの科学エッセイ<11> 素粒子のモンスター」 Issac Asimov ハヤカワ文庫 ★★

    世の中には、尋常でなく活性の高い人がいるものだ。アシモフは生涯に500冊以上もの本を書いたそうだが、一体どうしてそんなことが可能なんだろうか?「まえがき」で言い訳しているように、初めて印刷されるときには結構ミスもあるようだし、内容は高校レベルで決して難しくはないとはいえ、科学解説は正確を期さなければならないのに、どうやって調べているんだろう。

    ちにみに、アシモフは1992年に亡くなったが、その死因はエイズだったそうだ。といってもやましいことがあったわけではなく、本書に書かれている心臓のバイパス手術の際に感染したとか。('04.5.13)

「ゴールドラッシュ」 柳美里 新潮文庫 ★★

    14歳の少年が殺人を犯すという、どこかで聞いたことのあるような話だが、ストーリーはやや荒唐無稽。しかし、著者の文章の巧みさには舌を巻く。当たり前の言葉を使っているのに、その組み合わせ方がとても新鮮なのだ。('04.5.1)

「忍ぶ川」 三浦哲郎 新潮文庫 ★★☆

    人生の流れが悪くなってくると、無性に小説が読みたくなるのだ。これぞ正統派純文学。美しいなぁ。『伊豆の踊子』のようなイメージで、心が洗われるようだ。こういう女の人は、もう何十年も前に日本から絶滅してしまったんだろうな。しかしこれ、私小説なんだそうだ。羨ましいぞ!

    この本には、表題作以外に6編の短編が収められている。「初夜」「帰郷」は「忍ぶ川」の続編で、これも悪くはないが、これを読むと却って最初の印象が薄れるかもしれない。個人的には、最後の「驢馬」が面白いと思ったのだが、「解説」では酷評されていた。これは著者が「忍ぶ川」で芥川賞を受賞する3年前、恐らくまだ無名だった頃(26歳)の作品で、ということは当時も評価されなかったのか。('04.4.25)

「睡眠障害」 井上昌次郎 講談社現代新書

    ここ10年来、朝爽快に目覚めたことがないなぁ、と思ってこの本を読んだ訳だったが、あまり役に立たなかった。これは「睡眠障害の博物学」で、88種類もの病気についてつらつらと説明してある。この人、なんでこんなにあらゆる病気について詳しいんだろうと思ったら、どうやら専門書から抜粋しただけらしい。「環境因性睡眠障害」ってこれ、病気か?単にうるさくて眠れないだけじゃ?('04.3.31)

「胎児の世界」 三木成夫 中公新書 ★☆

    これは、詩的な、不思議な魅力のある本ではあるんだが。著者は解剖学者で、ニワトリの胎児の血管に墨汁を注入するとか、ヒトの胎児の顔つきが数日のうちに魚から哺乳類になるという話は、少し面白い。でも、第3章で展開される著者の思想にはついていけなかった・・・。('04.3.27)

「言語の脳科学」 酒井邦嘉 中公新書 ★★☆

    非常に面白い。言語の脳科学は、言語学、情報科学、生理学、遺伝学という4つのアプローチがある、究極の学際領域だ。本書は主に生理学的なアプローチについて解説してあるが、説明はコンパクトながら内容は多岐に渡る。一番興味深かったのは、本題からはやや外れるが、第11章「手話への招待」だった。手話なんて、所詮エスペラントのような人工言語だろうと思っていたが、手話を母語とする人や、手話と日本語のバイリンガルがいたりして、これも立派な自然言語なのだという。

    しかし、言語学について扱った前半の部分、特に第4章は納得いかない。ここだけ記述が科学的ではないのだ。どうやら著者は筋金入りのチョムスキアンであるようだ。しかし、「普遍文法」なるものの存在についてはcontroversialであるのに、著者は根拠もなくチョムスキー理論が正しいことを仮定している。「チョムスキー批判に答える」(p.113)という節では、批判に答える代わりに、田中克彦氏の著作を感情的に批判している。「その[普遍文法の]文法体系は、その後日本語を含め、さまざまな言語のデータで例外のないことがチェックされている」(P.117)とあるが、これは本当か?ここにはいかなる文献も引用されていない。それから、 著者は必要以上にチョムスキーを持ち上げているが、チョムスキーをダーウィンになぞらえるのはやはりおかしい。それは、チョムスキー理論が証明されていないから、というだけではない。ダーウィンは博物学者なので、まず謙虚に自然を観察することから始めたが、チョムスキーは英語という特殊な一言語を用いてモデルを作ったのであって、もともと多様性を切り捨てている。

    さて、ではチョムスキーはなぜ「普遍文法」なるものを考えたのであろうか?それは、「プラトンの問題」と呼ばれる言語獲得の謎に答を与えることができるからである。「プラトンの問題」というのは、言語の発達過程にある幼児は、言い間違いや不完全な文を含んだ有限のサンプルしか入力データとして与えられないのに、母語の文法を完璧に身につけられるのはなぜか、ということである。言語が「獲得か学習か」という問題も非常にcontroversialであるようだが、ヒトが言語を習得できる潜在能力をもっていることが遺伝的に決定されていることは自明なので、本書を読む限りでは両者の違いはどうもはっきりしない。獲得説を採るとすれば普遍文法の存在を仮定しなければならないのかどうかもよく分からない。また、母語と第2言語の習得のメカニズムが本質的に異なるということが書かれていたが、年をとるにつれて言語習得の能力が低下していくということであって、それは連続的な変化に過ぎないようにも思われる。

    という訳で疑問は尽きないが、本書の良心的なところは、参考文献が載っていることだ。もう少し勉強してみようと思う。('04.3.16)

「日本語と日本人の心」 大江健三郎・河合隼雄・谷川俊太郎 岩波現代文庫 ★★

    ふだん無味乾燥な英文ばっかり読んでいると、谷川俊太郎の詩のような素朴な日本語が心に沁みる。日本語というのは、やはり身体に密着しているな、と思う。英文を読んでいて、面白いと思って引きずり込まれることもあるけれど、それは内容そのものを楽しんでいるのであって、こういう感覚は母語でしか得られない。だから、大江健三郎が次のような主張をしているのはやや意外だった。つまり、例えば川端康成の小説に見られるような、日本語に固有な翻訳不可能性は極力排除して、世界のどこでもその土地の言葉の文学として理解されるような<普遍的な文学>を目指すべきである、と。しかし、詩や小説の芸術性は、むしろ翻訳不可能な部分にこそ込められているのではないだろうか。

    講演や対談というのは、話術を楽しむようなところがあって、その場で聞いている分には良いのだろうが、活字にしてみると大したことを言っていない場合が多い。本書もやっぱり、すぐに読めるけれども雑駁な感じは否めない。('04.3.13)

「心の病理を考える」 木村敏 岩波新書

    これは精神医学の本のように見えるけれども、100%哲学の本である。確かに、著者は開口一番「精神病理学は一種の哲学である」と言っている。一通り全体をスキャンしたものの、第1章と第5章以外は何を言っているのかサッパリ分からなかった。或いは何か新しいことを言っているのかもしれないけれど、私にとっては殆んど全く得るものはなかった。もっともこの本が悪いという訳ではなく、読者(私)との相性が悪かっただけかもしれないが・・・。

    第5章「分裂症と進化論」だけは、多少の興味を持って読んだ。それにしても哲学者は今西錦司が好きだねぇ。勢い余って「ウイルス進化論」なんていうトンデモ説まで引用してしまったのはご愛嬌というべきか。今や哲学は、自然科学(或いは自然科学の衣をまとったトンデモ科学)から思想を輸入することなしには成り立たないように思われる。でも自然科学の方が遙かに先を行ってしまっているから、哲学というのはなかなかつらい学問だ。('04.3.7)

「アラスカ物語」 新田次郎 新潮文庫 ★★★

    「作家になるための条件は、名文を書く力ではない。読者を引っぱって行く力である」と新田次郎は息子である藤原正彦に語ったという(『数学者の言葉では』)。その言葉通り、読み始めるや物語の中にグイグイと引きずり込まれてしまう。アラスカを踏まずに安易な小説(『北極光』)を書いてしまったことで16年も心の重荷を背負い続け、やっと実現した一ヶ月余りのアラスカ取材の後に書き上げたのが本著である。著者の意気込みが感じられる作品だ。

    明治元年、石巻に生まれた安田恭輔はフランク安田として単身アメリカに渡る。北米最北端の地であるポイント・バローでエスキモー社会に溶け込み、ハンターとしての腕を上げ、やがてエスキモー女性と結婚する。しかし、幸福な新婚生活も束の間、侵略者である白人の濫獲によって鯨が激減したこと、彼らが病原菌(麻疹)を持ち込んだことによって、バロー周辺のエスキモー社会は滅亡の危機に瀕する。彼らを救うため、フランク安田はゴールド・ラッシュに湧くアラスカ内陸部に金の鉱脈を探しに行く。苦労の末ついに金鉱を発見、それで得た資金で内陸部に新しい村を建設し、バロー周辺のエスキモー200人を引き連れて「民族大移動」を実現させる・・・。というのがあらすじで、話が巧くできすぎていると思うけれども、これが史実なんである。フランク安田は90歳まで生き、昭和33年に没したというから、そんなに遠い昔の話でもないのだ。彼の作ったビーバー(Beaver)という村は、確かにアメリカの地図に載っている。著者がこの小説を書かなければ、こんな奇跡を起こした日本人がいたことを一般の人が知ることはなかっただろう。

    これを読んで、早速バローに行きたくなった次第である。とはいえ、本書の第2章に出てくるような旧き良きエスキモー社会はもはや存在していないので、高いカネを払って行ったところで、失望するだけかもしれない。この小説は、日本人の視点から見ると勇気を与えてくれる話なんだが、エスキモーの視点から見ると、やはり悲しい。('04.3.6)

「でか足国探検記」 椎名誠 新潮文庫 ★★

    「でか足国」とは南米パタゴニアのことである。まぁ面白いには面白いんだが、文章自体が笑っていて、その点があんまり好きではない。かつて探検といえば博物学(ダーウィン『ビーグル号航海記』)、地理学(ヘディン『さまよえる湖』)、人類学(レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』、いずれも未読)上の調査という意味合いが強かった。著者もそういうのを目指してみたそうだが、全体的にフザケすぎているので、あまり成功しているとは言えないような。

    ま、それはさておき、ともかく羨ましいのだ。夜、満天の星空の元で、砂浜に打ち寄せる波の音を聞きながら、揺らめく焚き火の炎を眺めてボーっとする、なんていいではないか。この人、どうしてこうアリューシャン列島だのヤクート(サハ)共和国だのトロブリアンド諸島だのタクラマカン砂漠だの、私の行きたいところばっかり行ってるんだろう。まだ旅から帰ってきて1週間しか経ってないのに、またどこかへ行きたくなってしまったじゃないか。('04.2.28)

「ニワトリの歯 (上)(下)」 Stephen Jay Gould ハヤカワ文庫 ★★☆

    これも面白いが、どちらかというと前作(『パンダの親指』)の方が良かった。下巻の前半が少々タルい。ピルトダウン事件という人類学上の捏造事件(旧石器発掘捏造事件みたいな奴)の真犯人について、筆者の推理が滔々と述べられているのだが、正直言ってどうでもいい。それに引き続き、創造論だのユダヤ人への差別だの、またもや我々にとっては馴染みのない話題が続く。アメリカにおける博物館の充実ぶりは圧倒的で、こういう環境でないと進化は実感として理解できないだろうなと思う。その一方で、創造科学を進化と同等に学校で教えるべきだという、我々から見れば全く馬鹿げた主張がこの国ではまかり通っているのだ。わざわざグールドがこのエッセイで創造論に言及しなければならないほど、キリスト教原理主義者は勢力を持っている訳だ。そういう連中の声は我々には決して届かないからその実態は知る由もないけれど、アメリカにこういう問題が存在することは一つの謎である。

    もう一つ思うことは、分子が絡んでくると、たちまちのうちに話題が古くなってしまうことだ。ヒトはチンパンジーと一番近縁だということは現在では常識なんだが、高々20年前にはチンパンジーはヒトよりゴリラと近縁だと信じられていたとはちょっと驚きだ。第7部「シマウマ三部作」で述べられている3種のシマウマの系統関係については、現在ではどう決着がついているのだろうか。それに対して、第2部「科学者」なんかは、当然のことながらいつまで経っても古くならない。個人的には、古生物学の創始者であるキュヴィエについて述べた、第7章「オーニンゲンの臭石」が好きだ。('04.2.14)

「メディア・コントロール」 Noam Chomsky 集英社新書 ★★

    テロとは、アメリカやその同盟国に対して行使された暴力のことである。アメリカや同盟国が同じことをしたとき、それは「テロとの戦い」と呼ばれる。本書の指摘は全てもっともなんだが、チョムスキーは言語学者だというのに、この人の著作は今ひとつ読みにくい。真意が皮肉という衣で覆い隠されているのだ。

    辺見庸氏との対談は興味深い。最後の『東京にいて「アメリカ人はなんてひどいことをするんだ」といっているのは簡単です。日本の人たちがいましなければならないのは、東京を見ること、鏡を覗いてみることです。そうなるとそれほど安閑としてはいられないのではないですか』というコメントにはどきりとさせられる。しかし、戦後の日本の経済復興がアジア諸国に対する戦争に加担したことによって成し遂げられた、ということに罪の意識を感じる日本人はほとんどいないだろう。この本を読んで、奇妙な脱力感に襲われたのだが、結局のところ国家というものはすべからく悪なのだろうか。チョムスキーは、一体どういう世界なら満足するのだろう?('04.1.12)


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