2006年 42冊

(★〜★★★は満足度
「街道をゆく37 本郷界隈」 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★☆

    本郷には昔通っていたし、今の職場にもほど近いので、本書に登場するのは馴染みのあるところばかりである。いつかゆっくりと、本書の舞台を歩いてみたいものだ。

    本郷三丁目の交差点に、

    本郷もかねやすまでは江戸の内
    という川柳がある。以前からこの川柳が何を意味するのか気になっていたのだが、その回答はこの本の中にあった。

    もう一つトリビアを言えば、「後楽園」という名前は、「士は当(まさ)に天下の憂に先んじて憂い、天下の楽に後れて楽しむべし」から来ている。先憂後楽、である。

    江戸時代は、それぞれの地方が等質であった。例えば熊本は肥後五十四万石の城下で、肥後侍たちは誇りを高く持し、みずからを田舎者などとは思っていなかった。ところが、明治は“東京”の時代であった。明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になり、同時に、下部(地方)にそれを配るという配電盤の役割を果たした。三十余年間、大学は東京にただ一つ存在しただけであり、配電装置をさらに限っていえば、それは本郷だった。

    そういう訳で、本郷は明治の香りのするまちである。夏目漱石、森鴎外、樋口一葉といった文豪たちの家があって、本書も文学散歩の様相を呈している。明治という時代背景を理解した上で、改めて漱石の文学を読んでみたいと思った。また、本書には最後にちらりと出てくるだけだが、長岡半太郎、高峰譲吉、池田菊苗("umami"の発見者)、寺田寅彦といった明治の科学者たちの生き様と、その科学史的な意味についても考えてみたいと思った。('06.12.31)

「反戦軍事学」 林信吾 朝日新書 ★★

    「戦争に反対する人ほど、正しい軍事知識を身につけて欲しい」というコンセプトの元に書かれた本。それはそうなのだが、どうも軍事の話というのは気が滅入る。それでも、我々の子供の世代には、ここに書かれているようなことが現実にならないとも限らないので、あまり悠長なことは言っていられないのだ。後生の歴史家が現在を振り返って、我々が最後の幸福な世代であった、などと評することのないよう祈るばかりだ。('06.12.28)

「極限に生きる植物」 増沢武弘 中公新書 ★★

    1日中計算機の前に座っている私にとっては、フィールドワークというのは憧れである。仕事で、世界の辺境の地に行けるとはまことに羨ましい。それに、植物学や生態学の知識があれば、山歩きの幅がぐっと広がるだろうなぁと思う。('06.12.21)

「愛国の作法」 姜尚中 朝日新書 ★★

    私は、諸悪の根源は国家だと思っているので、「愛国心」という言葉には生理的な嫌悪感を感じる。しかし、藤原正彦の『国家の品格』が今年一番売れた新書であったり、いつの間にか教育基本法が改悪されてしまったりしている現状を鑑みると、どうも少なからぬ人にとってはそうではないらしい。本書で指摘されているとおり、「自分の国を愛するのは当たり前ではないか」という人は、「愛国心」は「愛郷心」の延長だと思っているのだろう。もっと言えば、外国旅行から帰ってきて、「やっぱり日本のメシは旨い」とか「温泉が一番」などと感じるのが「愛国心」だと思っているのかもしれない。だが、「愛国心」は、むしろ「愛郷心」と対立するものなのだと思う。

    改めて『国家の品格』をざっと見返してみると、藤原正彦は部分的には良いことを言っているのだが、話を「国家」に結びつけようとするときに、悉く破綻していることに気付く。『国家の品格』から引用してみよう。

    「四つの愛とはなにかというと、まず「家族愛」です。それから「郷土愛」、それから「祖国愛」です。その三つがしっかり固まった後で、最後に「人類愛」です。
     順番を間違えてはいけません。家族愛の延長が郷土愛、それら二つの延長が祖国愛だからです。日本ではよく、最初に人類愛を教えようとしますが、そんなフィクションを教えるのは百害あって一利なしです。まずは家族愛をきちんと整える。それから郷土愛。それから祖国愛です。このうちどれかが欠けていたら、世界に出て行っても誰も信用してくれません。
    人類愛がフィクションかどうかはさておき(祖国愛はフィクションだと思うが)、この議論のどこに、「国家」などという不自然な装置を持ち出してくる必要があるのだろうか。

    では、『国家の品格』を念頭に置いて書かれた本書はどうだろうか。姜さんの語り口は平易なのだが、今ひとつ分かりにくかった。引用が多いせいか、一読して内容が頭に入ってこないのだ。結局、姜さんの言う「愛国の作法」とは何なのだろうか?どうも「私がこのように苦言を呈するのは、日本という国を愛していればこそだ」と弁解しているようで、違和感があった。('06.12.16)

「時間の分子生物学」 粂和彦 講談社現代新書 ★★☆

    諸事情により、時計遺伝子について勉強する必要性が生じたため、本書を手に取ってみた。本書は地味な小著ながら、とても勉強になるばかりでなく、読み物としても非常に面白かった。とはいえ、時計遺伝子の話はあまり出てこなくて、(これはこれで面白いが)後半は睡眠の話に当てられている。題名は、「時計と睡眠の分子生物学」とでもしたほうが良かったのではないか。

    narcolepsyと、その原因遺伝子であるorexinおよびorexin receptorの話は聞いたことがあったが、これが見付かったのが1999年だから、生物学の研究の進展がいかに速いかが分かる。今や、あらゆる生命現象が遺伝子の言葉で語られる時代になった。比較ゲノム研究の重要性を改めて感じる。

    「眠い」という感覚は誰でもよく知っているのに、睡眠とはそもそも何なのか、実はほとんど分かっていない。可哀想だが、動物を眠らせないでおく実験をすると、極度の疲労で衰弱して、多臓器の不全により1週間程度で死に至るという。毎日を快適に過ごすためには良質の睡眠が不可欠なので、そういう面からも睡眠は、万人にとって興味ある問題である。('06.12.14)

「サバイバル登山家」 服部文祥 みすず書店 ★★☆

    著者は自分と同世代である。

    生きるということに関してなにひとつ足りないものがない時代に生まれ育ってきた。それが僕らの世代共通の漠然とした不安である。
    というのは、大いに共感する。しかし、本書とは関係ないのだが、そうであるならば、我々の子供の世代は一体何に希望を見出して生きれば良いのだろうと思ってしまう。
    若い登山者が登山から足を洗う契機は三回あるといわれている。一回目が就職、二回目が結婚、そして三回目が子供の誕生である。第三のハードルがもっとも高いらしい。(中略)プレッシャーとは、・・・自分の内側からもにじみ出す。子供が可愛くて、子供と遊んでいるほうが、山登りより楽しいのだ。
    私は著者とは比べるべくもないヘタレ登山者であるが、全く同感である。

    この人、相当に文才のある人らしく、本書はとにかく面白い。「寒気で固くなったスニッカーズを苦労して噛みちぎると、口の中にアングロサクソンが好みそうな恥知らずな甘みが広がっていった」なんて、唸るような名文だ。

    でも、著者の主張するサバイバル登山に関しては、あまりそういう問題意識を感じたことはないな。正直、カエルやヘビを食べながらの登山なんて、ちっともやってみたいと思わない。だが、サバイバル登山を目的でなく手段にするという発想は新しく、日高全山縦走には大いに憧れる。冬黒部は・・・、やっぱり、あんまり羨ましくない。('06.11.17)

「劔岳 <点の記>」 新田次郎 文春文庫 ★★☆

    明治40年。登ってはならない山と恐れられ、当時日本に残された唯一の未踏峰と考えられていた剱岳に、様々な困難の末に測量隊が登頂を果たす。ところが、頂上で彼らを待ち受けていたものは、千年ほど前に奉納したと思われる錫杖の頭と剣の穂先であった──というロマン溢れるお話(実話)である。

    結局、彼らは剱岳の頂上に三角点を設置することができなかった。実は、剱岳に三等三角点が設置されたのは、測量官柴崎芳太郎らの登頂から97年が経過した、2004年のことなのだ!それに伴って、剱岳の標高も従来より1m高くなり、2999mとなった(惜しい…)。また、本書が書かれた昭和52年の時点では、錫杖は柴崎芳太郎の息子さんが個人的に保管していたが、現在それは立山博物館にあるようである。立山信仰の歴史も興味深く、是非一度訪れてみたいものだ。その前に、まずは剱岳の頂に立ちたいことは言うまでもない。

    最後の長いあとがきも面白かった。著者が、史実をもとに、欠けた部分を補ってどのようにイメージを膨らませていくかが分かる。('06.11.5)

「人類進化の700万年」 三井誠 講談社現代新書 ★★

    人類学というと何やら古くさい学問のように思われがちだが、実は最近になって新発見が相次いでいる。2004年に報告されたHomo florensiensisの発見は大ニュースで、これはインドネシアのフローレス島で12,000年前頃まで細々と生き延びていた小型人類である。つい先週号のNatureでも、28,000年前の、ネアンデルタール人最後の生き残りの化石が報告されている。

    本書は、ジャーナリストが書いたものなので記述が薄っぺらで物足りない。無難にまとめたレポートという感じ。文献リストが付いていないのも全く頂けない。しかしそれでも、コンパクトにまとめられているので、取っかかりを掴むために最初に読む本としては良いかもしれない。('06.10.27)

「ヒトゲノム」 榊佳之 岩波新書 ★★

    ヒトゲノムの解読などというのは、一昔前までは夢物語に過ぎなかった。それが如何にして現実になり得たのか、その点を少し科学史的に考えてみようと思って、今更ながらこの本を繙いてみた。著者は日本におけるヒトゲノム計画のリーダーだった人だけあって、本書は非常にオーソドックスに、誠実に書かれていると思った。

    技術的に可能であることが分かればあとはカネだけの問題に過ぎないにもかかわらず、解読塩基数で日本は6%しか貢献できなかった。そのことに対する著者の無念が伝わってくる。本書とは直接関係ないが、ヒトゲノムが決まってしまった現在、ヒト以外の生物のゲノムに対する日本の貢献(あるいは関心)がほとんどないのも気になるところだ。

    ヒトゲノムに対する著者の熱き想いはこんな薄っぺらな本に収まるものではなかろうが、薄さをもって尊しとする岩波新書なので致し方ない。('06.10.19)

「意識とはなにか」 茂木健一郎 ちくま新書 ★☆

    うーむ、イマイチである。

    そもそも、クオリア(qualia)が「<あるもの>が<あるもの>であること、というユニークな質感」という説明からしてピンと来ない。まぁ意識の成り立ちが不思議であることは認めるとしても、本書はせいぜいミラーニューロンの話が出てくる程度で、その不思議に対しては何一つ答えていない(もっとも、答えられないのだろうが)。不思議でしょ、と冗長に繰り返すばかりで、あんまり内容がないような気が・・・。その不思議にしたって、きっと哲学の世界では大昔から議論されてきたことであり、取り立てて新しいことでもない。

    著者のブログをよく見るが、この人のアウトプットの膨大さには驚嘆する。きっと、考えると同時に文章が書けるんだろうなぁ。すげー。('06.10.12)

「絵の教室」 安野光雅 中公新書 ★★

    美術館に行きたくなる本。何の気負いもなく書かれているが、著者の人柄が滲み出ていて味わい深い。ところどころに挿入されている水彩画も良い。安野光雅画伯は、人が見ているところで絵を描くときには、「僕はもともと下手なんだ、頭も足りないんだ、絵が好きなだけなんだ」と自分に言い聞かせるのだそうだ。まさに悟りの境地である。('06.10.3)

「系統樹思考の世界」 三中信宏 講談社現代新書 ★★

    系統樹とは、生物・無生物に限らず、(ミーム的に)「進化」するものの時間的な変化の系譜である。「分類」という営みは多様性を理解するために人類に備わった基本的な欲求だけれども、「系統樹思考」はそこからもう一歩踏み込んで、その背後に潜む歴史性をも考慮に入れる。それは、遺伝子や生物種以外にも、言語・写本・活字などにも適用される考え方であり、「系統樹思考」を通して、いわゆる理系/文系の壁を乗り越えることができる、と説く。

    仕事柄、系統樹は毎日のように眺めているのだが、ここまで哲学的なネタを膨らませることができるとはちょっとした驚きであった。ただ、本書は、抽象的な議論が続いて具体例がほとんど出てこない(棒の手紙の例はあるが)。正直言って、ヨーロッパ中世のスコラ哲学についていくらアツく語られても、あまりワクワクしない。まぁ著者のマニアックな趣味を色濃く反映した本なので、これはこれでいいのかもしれないが、私はその「系統樹思考」によって世界はどのように体系化され得るか(生物学・言語学・文献学etc.の世界で)という博物学的な面のほうが興味あるな。

    著者の(マニアックな)ブログはこちら。('06.9.29)

「アメリカ外交 苦悩と希望」 村田晃嗣 講談社現代新書 ★★

    建国からイラク戦争に至るまでのアメリカ外交の流れがコンパクトに纏められている。厚すぎず、薄すぎず、丁度良い。「朝まで生テレビ」での喋りをそのまま活字にしたような、テンポの良い文体である。

    国際政治学者の仕事は事実を冷静に(あるいは冷徹に)分析することであるから、あらゆる立場から中立であろうとする著者の態度には好感が持てる。

    ブッシュ外交の善悪二分論を批判する者たち自身が、ややもすれば善悪二分論に陥っている。異なる見解に対する不寛容という点では、「ネオコン」批判派は、時として「ネオコン」以上に「ネオコン」的ですらある。(中略)
     アメリカ外交を分析する際、国際システムだけに注目すれば必然論に、アメリカの「国柄」だけにとらわれればステレオタイプのアメリカ性悪説に、そして個人や特定集団の役割を過度に強調すれば、陰謀説に陥りやすい。
    あるいは、
    まずはアメリカ合衆国憲法を、できれば日本国憲法と比較しつつ読んでみたい。両国の憲法も読まずに日米関係を論じるのでは、知的空虚の謗りは免れまい。
    などという指摘はなるほどと思う。

    但し、著者は9・11以後のブッシュ外交に関して一定の理解を示しているのだが、その点に関しては全く納得できない。本書には「苦悩と希望」という副題がついているが、どこに「希望」があるというのだろうか?('06.9.22)

「アメリカよ、美しく年をとれ」 猿谷要 岩波新書 ★☆

    今や、アメリカが世界の嫌われ者であることは、世界の常識である。むしろ、アメリカが輝いていて、憧れの対象だった時代が存在していたこと自体が、今となっては新鮮に感じられてしまう。著者は1923年生まれなので、愛されていた頃の「古き良きアメリカ」をよく知っているのだろう。そんな訳で、第1章「アメリカが愛されていた頃」は面白かったのだが、それ以外はありきたりに思われた。('06.9.12)

「憲法とは何か」 長谷部恭男 岩波新書 ★☆

    個々の説明は分かり易いが、全体としては今ひとつ捉えどころがない。法は解釈の問題なので、日本が軍事力を保持するためには憲法九条の改正は必要ナシ、とかいうことが書いてあったが、それが本書のメインの主張というわけでもない。終章「国境はなぜあるのか」は少し期待したが、「国境をいかに引くべきかについて、あらゆる場合に妥当する原理的な正解は存在しない」という至極当たり前のことが書いてあるに過ぎなかった。いずれにせよ、私が知りたいと思っていたことは本書にはあまり書かれていなかった。('06.9.6)

「憲法九条を世界遺産に」 太田光・中沢新一 集英社新書 ★★★

    テレビはあまり見ないのでよく知らなかったが、太田光ってタダモノではないな。こんなにアツい芸人が今まで日本にいただろうか?憲法九条を世界遺産に、この発想は天才的だと思う。日本国憲法というのは矛盾に満ちているが、それを覚悟をもって面白がろう、という。今の日本には、こういう発言をしにくい危険な風潮が蔓延しているけど、彼には是非とも、いつまでも芸人として毒を吐き続けて欲しい。大いに勇気づけられる。('06.8.27)

「生命とは何か」 Erwin Schrödinger 岩波新書 ★★

    量子力学の創設者の一人であるシュレーディンガーが1944年に記した本。現在の我々の、生物に対する理解とのあまりの格差に愕然とする。この60年間に人類が得た生物に関する知識量は驚異的であり、1953年の二重らせんの発見がいかに革命的であったかが分かる。我々は最新の知識を仕入れるのに忙しいが、たまには古典を繙いてみるのも良い。科学という営みの重厚さを改めて感じることができる。('06.8.25)

「キャッチャー・イン・ザ・ライ」 J. D. Salinger 村上春樹訳 白水社 ★★

    不朽の青春文学、かぁ。このトシになると、流石に16歳のホールデンに感情移入するのは無理がある。逆に、今自分がホールデンに会ったらなんて言うだろうか、とか考えてしまう。俺はもう、彼の言う「インチキ野郎」になっちまっただろうか?16歳のときにこれを読んでいたら果たしてどう感じたか、それはもう永久に分からない。

    この本、発禁処分になったこともあるらしいのだが、充分健全だった。もっとも、それは村上春樹の翻訳によるものかもしれない。野崎孝訳と読み比べてみようと思う。

    それにしても、最近の安っぽいハリウッド映画みたいに、原題をカタカナで表記しただけのタイトルは戴けない。「ライ麦畑でつかまえて」があまりにも定着しすぎてしまったため、それを超えるものを思いつけなかったのだろうか。「ライ麦畑のキャッチャー」でもいいと思うけどな。('06.8.12)

「世界共和国へ」 柄谷行人 岩波新書 ★★

    また、戦争が始まってしまった。

    私は、「国家」というものは解体されるべきであると思っている。などと言うと、あまりに荒唐無稽なので笑われるけれども、実はマルクスも、階級闘争が解消されれば国家は自動的に消滅すると考えていたという。しかし現実には、全く逆に、国家主義的な独裁体制を招くことになった。それは、国家主権とは、他の国家の存在によって規定されるものだからだ。つまり、一国の中だけで国家を捨て去ることはできない。そこで検討してみたいのが、カントが『永遠平和のために』で提唱した「世界共和国」の理念である。

     では、どのように国家に対抗すればよいのでしょうか。その内部から否定していくだけでは、国家を揚棄することはできない。国家は他の国家に対して存在するからです。われわれに可能なのは、各国で軍事的主権を徐々に国際連合に譲渡するように働きかけ、それによって国際連合を強化・再編成するということです。たとえば、日本の憲法第九条における戦争放棄とは、軍事的主権を国際連合に譲渡するものです。各国でこのように主権の放棄がなされる以外に、諸国家を揚棄する方法はありません。

    こんなことが可能なのだろうか?現在の人類の知性レベルでは、とてもできそうにない。しかし、筆者は言う。

    もちろん、その実現は容易ではないが、けっして絶望的ではありません。少なくとも、その道筋だけははっきりしているからです。

    人類はいま、緊急に解決しなければならない三つの課題に直面している。それは、

    1.戦争
    2.環境破壊
    3.経済的格差
    である。少なくとも確かなことは、今のままではいけない、ということだ。

    我々のなすべきことは、現状を分析して納得(あるいは絶望)することではなくて、少しでも理想に近づけるよう努力することである。だから、著者のような知識人が、真面目にこのような発言をすることの意義は大きいと思う。

    とはいえ、本書は極めて難解で、第4部以外はほとんど理解不能だった。相当な予備知識がないと読みこなせそうにない。まず、上で引用した第4部の内容を言うために、第3部までの回りくどい解説がなぜ必要なのかすら分からなかった。著者はこれでも一般向けに書いたつもりらしいのだが…。残念ながら、これでは多くの人に訴えかけることはできないだろう。('06.8.2)

「科学者という仕事」 酒井邦嘉 中公新書 ★★

    内容はどちらかと言えば学生向けだが、第一線でバリバリ活躍されている先生によって書かれた本なので、とても参考になる。引用文献が逐一付けられているのが新しい。しかし、アインシュタインやニュートンと並んで、科学者としてチョムスキーが紹介されているのはどうも違和感がある。

    次の朝永振一郎の言葉には、大いに納得させられた。

     なまじ、たとえば何時から何時まで会議に出ろとか、かくかくの書類をつくれ、などという義務があると、そういう形式的な義務を果たしただけで、自分の義務は全部済んだという気分になってしまう。そこで良心が安心してしまうというわけで、さらに新しい意欲は湧かない。
     人間とはそういうものである。研究をさせるためには、だから良心を安心させてはいけない。安心させないためには、そういう口実を与えてはならないということである。
    ('06.7.16)
「ベトナム 戦争と平和」 石川文洋 岩波新書 ★★

    これらの写真の前には、どんな言葉も無力のような気がする。ベトナムも、いつかは訪れなくてはならないな、と思う。

    石川文洋氏の公式ホームページはこちら。('06.7.4)

「世界森林報告」 山田勇 岩波新書 ★★☆

    「世界森林報告」というから、目を覆いたくなるような、惨憺たる環境破壊の現状報告かと思った。実は本書は、楽しいエコツーリズムの入門書なのだ。先住民の素朴な伝統文化と彼らの住まう自然環境がカネを生み出してくれるエコツーリズムは、全てを解決してくれる魔法の杖のように思える。開発されすぎると、エコツーリズムとしての価値が下がるところがミソである。21世紀というのは、案外、希望のもてる時代になるかもしれない、などと思ったりする。もちろん、当の先住民があまり乗り気でなかったりして、事態はそれほど単純ではないが、それでも欧米の大資本によるリゾート開発に比べればよっぽどマシだろう。

    著者は、40年にわたって、のべ10年分も海外の森を逍遙してきたという。まことに羨ましい。地球上にはまだまだ訪れるべきところが沢山ある。本書は、新書という制約上、あまりにも駆け足で地球を一周してしまうのが残念。もっとじっくり話を聞きたかった。

    1年の折り返し地点で21冊。まぁこんなもんか・・・。('06.6.30)

「天才と分裂症の進化論」 David Horrobin 新潮社 ★★☆

    本書の指摘はなかなか面白い。人類進化と精神分裂症(統合失調症)を結ぶもの──それは、脂肪である。様々な分野に精通していると、新しいことが見えてくるという一例であろう。

    まず、ヒトとチンパンジーの最大の違いは、生化学的に見ると、脂肪である。脳の大部分は脂肪でできている。また、ヒトは、他の類人猿と違って皮下脂肪を大量に蓄積している。このことから著者は、Homo sapiensへの進化の道のりの最初に、脂肪を効率よく取り込むような突然変異が起きたと推測する。

    次に、精神分裂症はあらゆる人種でほぼ同じ比率で発症する。このことは、全人類の共通祖先が既に分裂症を発症させるための遺伝子(群)をもっていたことを示唆している。また、分裂症患者の脳では特定の脂肪酸が少なくなっており、脂肪酸を投与することで症状を緩和することができる。さらに、天才の家系には、しばしば分裂症が現れる。以上のことから、著者は、分裂症遺伝子の獲得がヒトをヒトたらしめたのだと主張する。もっとも、この最後の部分は、空想の域を出ない。

    余談だが、「魚を食べると、頭が良くなる」というのはあながち嘘ではないことが分かった。('06.6.27)

「チョムスキー入門」 町田健 光文社新書 ★☆

    チョムスキー理論というのは、解説書を読めば読むほどつまらなく思えてくる。本書は、「チョムスキー入門」と銘打ってあるが、実際はチョムスキー批判の書である。その批判は至極もっともなのだが、チョムスキー理論自体がつまらないので、わざとらしい英文を使っていくら解説されてもちっとも面白くない。これをオーストラリア先住民の言語でも使ってやってくれれば面白いのかもしれないが、「普遍文法」なんて戯言なのだから、そもそもできないのだろう。生成文法は、英語学とかいう学問には少なからず貢献したのかもしれないが、私はそんな醜悪な言語には興味はない。世の言語学者は、今どき手垢のついた英文なんかこねくり回している暇があったら、一刻も早くフィールドに出て滅びゆく言語の保全に努めた方がよっぽど有益なのではないか?('06.6.17)

「ルポ 戦争協力拒否」 吉田敏浩 岩波新書 ★★

    外から眺めているとよく分かるのだが、私がアメリカに行っていた2年間(2002~2004年)の間に、日本は危うい方向に大きく変わったと思う。「自衛隊のイラク派兵反対」というビラを配布しただけで逮捕されるとは、随分恐ろしい世の中になったものだ。('06.6.9)

「消えゆく言語たち」 Daniel Nettle & Suzanne Romaine 新曜社 ★★★

    世界には約6,000の言語がある。しかし、日本語のような巨大言語を話す我々には想像もつかないことだが、そのうち約30%は、話者数が1,000人以下であるという。そして、今世紀の間に、全言語の半数以上が死滅すると予測されているのである。実際、日本語のお隣の言語であるアイヌ語と琉球語は、ともに死滅の危機に瀕している。

    本書は、保全言語学のバイブルと言っていい。なぜ言語多様性を守らなければならないのか、という問いに対する本書の解答は画期的で、示唆に富んでいる。それは単に、かけがえのないものが失われることを惜しむ、という博物学的な興味によるものではない。本書によれば、地域の環境に関する知識は先住民族の言語の中に組み込まれているのであり、「持続可能な開発」のためには先住民族の言語が不可欠だというのである。なにしろ彼らは、その環境の中で今までずっと上手くやってきたのだから。

    言語多様性と生物多様性は強く相関している。そのことは、環境が異なれば文化(言語)も異なると考えれば納得がいく。低緯度地域ほど生物-言語多様性は高くなる。だから、低緯度地域においては、国家という入れ物は人間をまとめる単位としては大きすぎるのだ。近代国家というシステムは、環境の多様性の低いヨーロッパでこそ成立し得たのであり、それを世界の他の地域に押しつけてもうまくいかないのである。グローバリゼーションの行き着く果てには破滅が待っている。

    では、言語多様性を守るために、我々は何をなすべきなのだろうか?そのことに対する筆者の提言は、環境問題と同じで、スローガンとして言うなら「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」ということになる。言語の消滅は、近代化に伴う必然ではない。状況は依然として危機的であるけれども、希望の見える大きな変化が起こってきていることもまた事実なのだ。('06.6.3)

「イヌイット」 岸上伸啓 中公新書 ★★

    今や、あらゆる民族と文化は、国家と貨幣経済という枠組みの中で近代化しなければ生き残ることはできない。イヌイットはロシア(シベリア)・アメリカ(アラスカ)・カナダ・デンマーク(グリーンランド)という4つの国家に分断されているが、その中でもカナダのイヌイットは国家と比較的良好な関係を保っている。Nunavutというイヌイットの自治州があって、エスキモー語も広く使用されているし、アメリカ先住民族の中では最も「成功」した民族の一つかもしれない。本書で記述されているのは、暖房やシャワーの完備された快適な家に住み、インターネットを操る、21世紀の今を生きるイヌイットである。もはや、本多勝一『カナダ・エスキモー』や植村直己『極北に駆ける』に登場するような、旧き良きエスキモー社会は存在しないのだ。

    本書を読んで思うことは、文化人類学という学問の現代的な意味である。この学問は、国家という枠組みの中で、先住民族が伝統と誇りを保ち続ける道を模索する「保全民族学」へと向かっていくだろう。それは非常に重要だし、そうしなければならないと思う。けれども、もはや地球上に心躍らされるような未知なる世界は残されていないと思うと、やはり一抹の寂しさを感じる。('06.5.7)

「Four Colors Suffice」 Robin Wilson Princeton University Press ★★☆

    題名は、「四色で充分」という意味である。なぜか、あの茂木健一郎氏によって翻訳された日本語版(『四色問題』)があるが、アメリカで原著を買ってしまったので英語版を読んだ。他人の文章の引用を除けば、英文は分かり易い。数学の解説も丁寧で、しかも明解である。四色問題の日本語の解説としては、同じ題名の、一松新『四色問題』(講談社ブルーバックス)がある。こちらはもう少し数学の言葉を使って解説してあるが、本書とほぼ同じ構成である。但し、残念ながらこの本は既に絶版になっているようだ。どうもブルーバックスはいい本が絶版になって、年々質が低下しているような気がしてならない。

    四色問題とは、「平面上のあらゆる地図は四色で塗り分けられる」という命題を証明することである。この一見簡単そうな問題は、1976年の解決に至るまで実に120年を要したのだが、その「証明」にコンピュータが使われたことで悪名高い。(ちなみに、その証明のコンピュータの出力は、ワシントンのスミソニアン・アメリカ歴史博物館にある。)

    その証明は、一言で言うと、「有限個の可約配置のみからなる不可避集合を見つける」ということで、そんなに高級な数学的テクニックは使われていない。「可約配置」とは、それ以外の国の塗り分けに影響を与えずに国の数を減らせるような配置のことで、これは「最小反例」(塗り分けに五色必要な地図が存在すると仮定したとき、そのような地図の中で最小の数の国を含むもの)には含まれ得ない。「不可避集合」とは、あらゆる平面上の地図が、そのうち少なくとも一つを含まなければならないような集合のことである。ケンペは、二角形・三角形・四角形・五角形からなる不可避集合(これが不可避集合であることは、オイラーの定理から示せる)のそれぞれが可約配置であると考えたが、実際には五角形は可約ではない。ここに四色問題の予想外の難しさがある。(五色使えば五角形も可約になるので、「五色問題」は容易に証明できる。)ハーケンとアッペルの「証明」は、まず、可約である可能性のあるような「良い」配置からなる不可避集合を構成し、可約性を逐一確かめていって、それが判定できない場合にはその配置を別のものに置き換え、更に可約性を検証していくというものである。従って、その「証明」に使われた1,849個からなる不可避集合は最小のものではない。実際、1999年には649個からなる可約な不可避集合が見つかったという。('06.5.7)

「姜尚中の政治学入門」 姜尚中 集英社新書 ★☆

    私は、静かだが場を支配する迫力をもつ姜さんの話し方が好きだ。「朝まで生テレビ」でも参加者の中で一番まっとうな発言をしていると思っている。その著者による政治学の入門書、ということで大いに期待していたのだが、結果はイマイチだった。というのも、この本は古典からの引用ばかりでちっとも面白くないのだ。実は著者は意図的にそうしていて、そのことは「あとがき」を読むとはじめて納得する。メディアでの華々しい「生もの」としての発言の裏には、膨大な古典を読み込むことによってはじめて得られる「干物」としての知があるのだ、と。それはそうだろうと思う。しかしそれならば、その「干物」の部分を詳しく解説してくれれば良かったのに…と思うのだが。現在のキナ臭い国際政治を論じるなら本書に出てくる程度の教養は当然身につけていなければならない、というメッセージなのかもしれないが、それでは入門書ではないな…。('06.4.22)

「脳のなかの幽霊」 V. S. Ramachandran & Sandra Blakeslee 角川書店 ★★☆

    こってりとした味付けの重厚な本だった。意識とは何か、という「クオリア問題」を扱った最終章は特に面白い。この手の問題を扱った書物というのは、科学の装いをしたトンデモ科学であることが多いと思っていたけれど、それが正統な科学の手の届くところにまで来つつあることが納得できた。

    神経科学の著名な著述家といえば、本書の序文も書いているOliver Sacksがいる。Ramachandranは医師であると同時に科学者であり、本書は、自らが行った実験や、脳のメカニズムについての立ち入った解説がある点でOliver Sacksを超えている。神経学上の奇妙な症例の記載そのものに関しては、やはりOliver Sacks(例えば『妻と帽子を間違えた男』)が断然面白い。('06.4.19)

「ルート66をゆく」 松尾理也 新潮新書 ★★

    副題は、「アメリカの「保守」を訪ねて」。「黒人のアメリカ」や「ヒスパニックのアメリカ」は、数年間アメリカに住んだくらいでは決して見えてこない。それと同様に、「保守のアメリカ」というのも、我々にとっては実に分かりにくい世界である。ダーウィンを否定し、インテリジェント・デザインなどというトンデモ科学を大真面目に信奉する謎の連中。ニューヨークやロサンゼルスといった馴染みのある大都市はむしろ特殊な存在であって、広大な内陸部を占める「保守のアメリカ」こそが典型的なアメリカなのだろう。だからこそ、ブッシュなどという知性のカケラもない輩が再選されるのだ。とはいえ、本書によれば、保守=共和党、リベラル=民主党という単純な図式は正しくないし、オクラホマ人に言わせればブッシュだってリベラルだという。保守のアメリカとは一体何なのか、ますます訳が分からなくなった。('06.4.11)

「博士の愛した数式」 小川洋子 新潮文庫 ★☆
「流れる星は生きている」 藤原てい 中公文庫 ★★★

    敗戦時の満州から、3人の幼い子供を連れて命からがら引き揚げてくる話。38度線を突破するまで、夜闇にまぎれて山道を歩き続けるくだりは、壮絶の一言に尽きる。極限状態における人間の醜さ、貧困の惨めさ、そして、家族を守るということについて、深く考えさせられる。描写が実にリアルで、すぐに引き込まれる。あの戦争を追体験するために、是非とも読んでおくべき一冊。

    著者は、作家・新田次郎の妻。このとき3歳だった次男は、最近『国家の品格』などという下らない本がバカ売れしてしまった、藤原正彦氏である。('06.4.4)

「東部ニューギニア戦線」 尾川正二 光人社NF文庫 ★★☆

    捨てられた部隊──第二十師団七十九連隊、6150名は、敗戦時には60余名になっていた。死亡率99パーセントの戦場を生き延びた著者による、異常な体験の記録。

    結局、戦争とは、一人一人の戦争体験の中にしかないのだ。想像を絶する世界、としか言いようがない。その中にあってさえ、人間が優しさを失わないのが救いだ。先住民との交流は印象的だが、彼らもこの戦争の大いなる犠牲者だった。この本、もっと読まれてもいいような気がするが、あまり知られていないのはなぜだろう。('06.3.18)

「孫子の兵法の数学モデル 最適戦略を探る意思決定法AHP」 木下栄蔵 講談社ブルーバックス

    AHP(Analytic Hierarchy Process)とは、意思決定のための定量的手法である。他に類書がないので、AHPについて知りたい人はまずこの本から勉強を始める。しかし、本書は読み物としては全くつまらないし、本書を読んでもこの方法がイケてるとは思えなかった。孫子の兵法の話は「まえがき」にしか出てこないのに、これをタイトルに据えるセンスもどうかと思った。('06.3.2)

「素数大百科」 Chris K. Caldwell 共立出版 ★★

    本書は、Prime Pages というウェブサイトをただ翻訳しただけのものである。巨大素数の記録は日々更新されていくので、この本の内容はすぐに古くなる。実際、本書の出版後に、知られている最大素数のレコードは4回も書き換えられている。現在知られている最大の素数は、2005年12月に発見された

    230,402,457 - 1
    という9,152,052ケタの数である(その数を見たいというモノ好きな人は、コチラをどうぞ)。これは、GIMPSと呼ばれる、何千台ものパソコンのCPUを使った巨大素数探索プロジェクトにより見つけられたものだ。巨大素数探しは、今やそれほど知的な作業とは言えない。とはいえ、全くの素人であっても、このプロジェクトに参加できる程度の知識と運さえあれば人類の歴史に永久に名を残すことができるのだ。しかも、最初に1000万ケタを超える素数(次のMersenne素数?)を見つけた人には、10万ドルの賞金というおまけまで付いてくる(このページ参照)。

    このinformativeなサイトに一体どれほどの内容が含まれているのか、ウェブ上で探索し尽くすことは極めて難しいので、このように書物の形をとって出版されることは大いに意味がある。このサイトは、単に巨大な数を蒐集するにとどまらず、非常に深淵な数学的内容を含んでいるのだ。全く体系的ではないが、これから趣味で数論を勉強するにあたっての目標を与えてくれる。

    惜しむらくは、明らかな誤植があまりにも多いことだ。アマチュアが片手間に訳したものらしく、翻訳もいい加減である。5,800円という値段も高すぎる。('06.2.16)

「放浪の天才数学者エルデシュ」 Paul Hoffman 草思社 ★★☆

    ハンガリー生まれのPaul Erdösは、生涯に1,453本もの論文を量産し、人類史上最も多くの共著者(509人)をもつという伝説的数学者である。彼は筋金入りの変人だったが、誰からも愛されたらしい。ただし本書には、思ったほどErdösのエピソードは出てこない。むしろ数学の解説が多いのだが、数式を使わずに読者を楽しませることのできる数学ネタは限られているので、本書に出てくるお話の少なからぬ部分は、既にどこかで聞いたことのあるものだった。

    とはいえ本書の凄いところは、改めてキチンと数学を勉強したいと思わせてくれるところである。微分積分や線形代数は、現代社会を生きる上で必須の知識であるが、数学として純粋に楽しいのは数論と組み合わせ論だ。そして、Erdösが生涯にわたって追求したのもこれだった。こういうのこそ、大学の教養課程で教えるべきなのではないだろうか?という訳で、思わず

    『はじめての数論』 Joseph Silverman ピアソン・エデュケーション
    『組み合わせ論入門』 Pólya, Tarjan, Woods 近代科学社

    を購入してしまった。しかし、オレにはこいつらを読む時間はあるのだろうか…。

    さて、ある人がn-1人の共著者を介してErdösと共著の論文がある場合、その人はErdös数nを持つという。驚くなかれ、私のErdös数は5なのだ!

    0. Erdös, Paul
    1. Szekely, Laszlo A. (1987)
    2. Koonin, Eugene V. (2002)
    3. Glazko, Galina (2003)
    4. Nei, Masatoshi (2002)
    5. Niimura, Yoshihito (2003) (括弧内は共著論文の出版年)

    というpathが存在するのだ。著名なbioinformatistであるKooninのErdös数が僅か2であるところがミソ。このことにより、ほとんどの全ての生物屋さんは何らかのErdös数をもつことになる。('06.2.3)

「あの戦争は何だったのか」 保阪正康 新潮新書 ★★☆

    本書は、歴史家ではなくノンフィクション作家によって書かれているので、非常に読みやすい。すぐに引き込まれてしまい、息つく暇もなく読み終わってしまう。思わず目頭が熱くなる箇所もある。

    戦争とは、人が死ぬこと、ただそれだけだ。今現に起きている戦争を、評論家よろしく、ゲームのように戦略や戦術の視点から語るのはどうかと思う。しかし、戦後60年経って、太平洋戦争も歴史になりつつある。善悪二元論で語られがちな太平洋戦争を、今こそ冷静に振り返ってみる必要があるだろう。歴史とは解釈なので、絶対に中立な立場というのはあり得ないけれども、著者は、つとめて中立に、客観的に描こうとしている。

    その試みは成功していると思うが、読み終えてみると、なんとも言えない物足りなさが残る。結局、あの戦争が何だったのかを新書で描き切ることに、そもそも無理があるのだろう。('06.1.21)

「いまどきの「常識」」 香山リカ 岩波新書 ★☆

    「軍隊を持ってこそ「普通の国」だ」とか、「痛い目にあうのは「自己責任」」などという今どきの「常識」を斬る。大いに頷いたのが半分、そうでないのが半分。後者の例として、例えば「ゆとり教育は失敗だった」は正しいと思うけどな。全体としては、どうもイマイチ印象が薄い。('06.1.13)

「The Lady Tasting Tea」 David Salsburg Owl Books ★★

    題名からは内容は想像もつかないが、"How statistics revolutionized science in the twentieth century" という副題が全てを表している。本書は、20世紀における統計学の歴史の本である。紅茶を入れてからミルクを注ぐのと、ミルクを注いでから紅茶を入れるのとでは味が違う、と主張する女性がいた。その女性が本当に両者を見分けられることを証明するには、どのような実験をデザインすれば良いか?その場に居合わせたのが、実験計画法を考えた R. A. Fisher だったというのが題名の由来である。言われてみれば、確かに「統計」というのは実に革命的なアイディアで、あらゆる学問領域においてあまりにも深く我々の考え方を規定している。

    恥ずかしながら、私は統計学というのは数学の中で最も醜悪な分野だと思っていたので、今までまともに勉強したことがなかった。しかし最近、講義で教えなければならないという事態が発生したため、数理統計学を一から勉強し直した。こんなにも美しい数学的構造が潜んでいるとは知らなかった!当然のことだが、あらゆる学問分野にはその背後に深遠かつ広大な世界が広がっている訳で、体系的に勉強することの大切さを改めて認識した次第である。

    この本に数学は一切出てこないが、統計家は山ほど登場する。決して読み易い本ではなく、非常にdescriptiveなので途中で挫折しそうになった。だいたい単語が難しすぎる。毎朝電車の中でコツコツ読み進めていったが、読破するのに3ヶ月くらいかかった。(そのために電子辞書も買った。)とはいえ、恐らく日本語の本に類書はなく、学んだことも多かったように思う。('06.1.12)

「国家の品格」 藤原正彦 新潮新書

    本書は、同じ著者の今までの著作に比べて圧倒的にレベルが低い。その理由は二つある。一つは、これが講演を元に加筆して作られたという、『バカの壁』と同じく非常に安直な作りの本だということだ。従って内容はスカスカで、一瞬にして読める。第二は、「国家」などという厄介な政治装置を持ち出してきて、いたずらにナショナリズムを煽っている点だ。しかし、恐らくこの二点が、残念ながらこの本がよく売れている理由でもあると思う。

    「国家の品格」とはまた随分嫌らしいタイトルを付けたものだ。「文化の品格」くらいなら分からないでもないが…。しかし、そうであったとしても、私は文化の間には差異のみがあるのであって、その間の優劣を論じることには意味がないと思っている。自分の文化に誇りを持ち、それを大切にすることは大いに結構。でもそれは、他の文化を否定することとは違うのだ。それに、この人の世界観は著しく偏っていて、日本とアメリカとヨーロッパの3極しか見ていない。それ以外の世界は存在しないとでも言わんばかりだ。あえて「大東亜戦争」という言葉を使ってみたり、「もしも私の愛する日本が世界を征服していたら、今ごろ世界中の子供たちが泣きながら日本語を勉強していたはずです。まことに残念です」なんてことを(冗談としても)言うのは、一体どういう感覚をしているんだろうか。

    私はこの人のファンだった。英語よりも日本語、論理よりも情緒、金銭至上主義から脱却せよ、小学校で株式や英語やコンピュータを教えるなんてもってのほか、いずれも大賛成だ。いくつかの主張は大いに納得できるし、私はこの人の考え方に随分と影響を受けてきた。しかし、この人は傲慢になった。本書が著者の思想の集大成だとは、誠に幻滅した。

    この本の中身のうち読む価値のある部分は、基本的に同じ著者の別の本に書かかれているので、これを読む暇があったら別の著書を読むことを強くお薦めする。中でも、処女作『若き数学者のアメリカ』がダントツで面白い。('06.1.9)

「日本が「神の国」だった時代」 入江曜子 岩波新書 ★★☆

    明治19年に義務教育が定められてから6年間だけ、日本に小学校が存在しなかった時代がある。昭和16年4月に、小学校は皇国民を鍛錬するための国民学校に変わった。そこでは、『国体の本義』を「教典」とする「天皇教」の徹底した刷り込みが行われた。(敗戦後も国民学校は存続し、いわゆる「墨塗り教科書」が使われた。)従って、小学校を一度も経験したことのない世代が1学年だけ存在する。それは、昭和10年4月〜昭和11年3月に生まれた人たちであり、著者もその一人である。(ちなみに、「新しい歴史教科書をつくる会」の名誉会長である西尾幹二氏もそうである。)本書は、国民学校で使われた教科書がどのようものであったかを紹介したもので、こういう切り口からあの戦争を考えてみるのも興味深い。

    「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」で始まるそれらの教科書は、今見ると非常に滑稽である。こんな教育が実際に行われていたとは、狂気としか言いようがない。しかも、これを日本語を母語としない植民地の子供にも強要していたのだ。戦争がおぞましいのは、人を殺すからだけではない。必然的に全体主義を伴うからだ。最近、第二次大戦を肯定的に捉えようと試みている連中が少なからずいるようだが、どう転んでもそれはあり得ない。私には全く理解できない。

    最後に、少々長いが筆者の言葉を引用しよう。

    この時代、このような教育と訓練の名による超国家主義思想を刷り込まれた子どもたちの不運は、一体感のなかに、横並びの価値観のなかに自己を埋没させる快感──判断停止のラクさを知ってしまったことである。そしてもう一つの不幸は、全体主義のまえに、個人がいかに無力かということを知ってしまったことである。そしてさらなる不幸は、いかなる荒唐無稽も、時流に乗ればそれが正論となることを知ってしまったことであり、それ以上の不幸は、思想のために闘う大人の姿を見ることなく成長期をすごしたことであろうと思う。
    ('06.1.5)

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