街道をゆく1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか 司馬遼太郎 朝日文庫 ★★★★☆
「近江」
というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。京や大和がモダン墓地のようなコンクリートの風景にコチコチに固められつつあるいま、近江の国はなお、雨の日は雨のふるさとであり、粉雪の降る日は川や湖までもが粉雪のふるさとであるよう、においをのこしている。
で始まる、以来25年間続く「街道をゆく」シリーズの記念すべき第一巻。シリーズ終盤の枯淡な味わいも良いが、本書はまだ若かった頃(当時47歳)の司馬さんの勢いが感じられる。
本巻を特徴づけるのは「古代」であろうか。
奈良は言うまでもなく、西日本の歴史は重厚である。ガイド・ブックを片手に本書を繰ってゆくと、想像力を充分に働かせれば、日本にもまだまだ面白い場所があることに気づく。例えば、三輪山の麓の大神(おおみわ)神社や、葛城山の高台にある一言主神社には、大和朝廷が成立する以前の土着の神さまが祀られているという。
そこへ持ってくると、Tokyoなんて偉そうに言っているが、その歴史は誠に薄っぺらい。
なにせ、京で平安文化の華やかなりし頃、「空より広き」武蔵野の原は、葦や荻がたかだかと繁り、弓をもち馬に乗った人がごくたまに現れてはいつの間にか草のむこうに消えているという按配であった。
今から僅か420年前(1590年)、家康が江戸に入ったときにもまだ、人煙もかぼそく「茅葺きの家、百ばかりもあるかなしかの体」だったという。まさに、「歴史そのものが戦慄である」。
本書が書かれたのは1971年(私の生まれた年だ)であり、司馬さんの紀行そのものが、今となっては既に歴史になっている。司馬さんは、生まれ故郷の景色が変わり果ててしまったことを
ブルドーザーが赤松林を根こそぎに均し、古墳をこそぎとったそのあとの剥げ地にセメントに赤青の塗料を吹き付けた瓦屋根のむれがはりついていて、戦後の政治が理想をうしない、利権エネルギーの調節機能だけになりはててしまっていることを如実に物語っている
といって嘆いている。それでもこの当時には、まだ三輪山にはシャーマン風の老女がいたし、高尾山に樵夫がいてもそんなにあり得ない話ではなかったのだから、日本の各地域にはまだ今とは比べものにならないほど多様性が残っていたのだろう。
なお、蛇足かもしれないが、この新装版は宜しくない。以前の版にあった、須田画伯による挿絵や地図をなくしてしまった意図が全く分からない。表紙も、以前の写真の方が好きだった。(09/01/28 読了)