読書日記 2009年

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垂直の記憶 山野井泰史 山と渓谷社 ★★★★★

ヒマラヤ8000m峰のバリエーション・ルートを、ソロで登る。もちろん無酸素──。
少々登山を囓ってみれば、これがどれほど凄いことなのか、ますます理解できるようになる。
全篇から死の匂いが立ち昇ってくる。読んでいて、興奮というよりも、背筋がゾクゾクするような恐怖を覚える・・・。
山ヤの用語が分かりにくいとか、細かい点はどうでもよくて、この本には本当に体験した者にしか書けない凄味がある。決して真似はできないけれど、「頑張る」ことの素晴らしさを、今更ながら教えられるのである。

現在では、充分なヒマとカネがあって、ある程度の体力があれば、誰でもエベレストの頂に立つことができる。そうであっても、それを実現させられるのはごく一握りの人だけだが、そんな方法で山に登って一体何が楽しいのか、というのは全く理解できる。
しかし──8000mは、死の世界である。無酸素でそこに存在しているだけで、確実に死に向かって近づいていく。脳が破壊されていくのである。
首尾良く成功したとしても、山ヤはより困難な山とルートを求める習性があるので、トップ・クライマーのほとんどは結局山で死んでしまう。生き延びる唯一の方法は、山野井さんのように、困難な登攀ができないほどに指を失いながら、奇跡の生還を果たすことだけかもしれない。

そうまでして、人はなぜ山に登るのだろうか?──これは陳腐だが、意味のある問いだと思う。
この問いは、その辺の低山を徘徊している中高年ハイカーに向かって、「なんでわざわざ疲れることをするの?」という意味で安易に発してはいけない。なぜ命を賭けるのか、ということだ。登山は他のスポーツとは本質的に異なるのである。
こういう問いが存在することは、餓え死にする心配のない現代社会において、命を賭けて成し遂げる価値のあるものは登山くらいしかない、ということを意味しているのかもしれない。
山野井さんは言う──

不死身だったら登らない。どうがんばっても自然には勝てないから登るのだ

(09/02/21 読了)

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