オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険 鈴木光太郎 新曜社 ★★★★☆
これは、なかなか眼からウロコの本である。
誰もが知っている、オオカミ少女の話。オオカミに育てられた二人の少女は、四つ足で歩き、手を使わずに生肉や鳥の内臓を食べ、夜行性で嗅覚は鋭く、遂にほとんど言葉を習得できずに死んだという。
子供の頃にどこかでこの話を聞いたが、今にして思えば、そんなバカなことがあろうはずがないことはすぐに気付く。実際のところ、この話は単なるデッチアゲなのである。しかし、この話が、「人間的な環境の中で育たないとどうなるか」という道徳の教材として使われているところが問題である。
映画の途中に知覚できない程度の閾下刺激を潜ませておくと、みんなコーラが飲みたくなるという、サブリミナル効果。これも、ただの都市伝説に過ぎない。そもそもそのような実験は行われていないのだ!
もう少し微妙な例もある。高校の国語の教科書に、次のような話が載っていて、非常に面白いと思ったことがある──コトバというものは、既に世界に存在しているモノにラベルを貼っていくのではなく、コトバが世界のあり方を規定するのだ(鈴木孝夫の「ものとことば」というエッセイらしい)。
色を表す言葉が2つしかない民族にとっては、虹は2色に見えるのだという。これは、サピア=ウォーフの言語相対仮説というが、実際にはこの説は誤りである。知覚は遺伝的に規定されているので、普遍性がある。例えば、色の知覚に関しては、ヒトとチンパンジーの間ですら共通している。
今でもこの話が教科書に載っているとすれば、実に由々しき事態ではないだろうか。
それから、現在の生物学界からは完全に忘れ去られているが、プラナリアの学習実験の話。この話は、アシモフの科学エッセイの中で大真面目に議論されている。
まず、(1)プラナリアは条件付けすることができる。(2)条件付けされた個体を2つに切って再生させると、再生した両方の個体に学習した記憶が受け継がれる。更に、(3)学習した個体を切り刻んで別のプラナリアに食べさせると、食べた個体に記憶が移行する。(4)どうやら記憶を担う物質はRNAであるらしい・・・。
最後の(4)の命題は明らかに間違っているが、それでは(3)はどうか?この点について、本書は白黒をつけていない。しかし現在ならば、もし(3)が正しければ、記憶を移行させた物質の正体を突き止めることができるはずである。
心理学という学問は、常に特有の胡散臭さが付きまとう。それは、巷に蔓延る心理ゲームのせいかもしれないが、そうとばかりも言えないようである。心理学は自然科学であるはずなのだが、日本の大学では、なぜか文学部に所属してしまっているところも問題かもしれない。(09/08/08 読了)