読書日記 2010年

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もし「右」や「左」がなかったら 井上京子 大修館書店 ★★★☆☆

メキシコやグアテマラのマヤ系先住民の話す言語、ツェルタル語には、「右」と「左」に相当する語彙がない。オーストラリア先住民のグウグ・イミディール語も同様である。このように、世界には、相対的指示枠でなく絶対的指示枠で空間を切り分けるような言語が存在する。
地球上に幾多存在する先住民言語には、人類のもつ世界観の豊穣なる多様性が潜んでいる。そして、それらの先住民言語は、すべからく絶滅の危機に瀕しているのである。

物理的には連続しているにもかかわらず、人は波長のスペクトルを恣意的に切り分けて、それを「色」と呼ぶ。よく知られているように、虹に含まれる色の数は言語によって異なっている。

日本語、韓国語、フランス語、ペルシャ語など:7色
英語:red, orange, yellow, green, blue, violetの6色
ドイツ語:rot(赤)、gelb(黄)、grün(緑)、blau(青)、violett(菫)の5色
南米のケチュア語:puka(赤)、q’illu(黄)、q’umir(緑)の3色
ニューギニア高地人のダニ語:mola(暖色系)とmili(寒色系)の2色

という案配である。

もっと身近な例を挙げれば、日本語ではウエストから上は「着る」、下は「履く」を使うが、韓国語では足首から上には「입다」、足首から下には「신다」を用い、英語では両方とも"put on"を用いる。

それでは、人間の認識の仕方は、どの程度言語によって規定されているのだろうか?認識は、言語によって決定される(「言語決定論」)、あるいは影響を受ける(「言語相対論」)というのが「サピア=ウォーフの仮説」である。そして、言語と認知との関係を調べるのが、言語人類学の仕事である。

それは一見すると非常に興味深いのだが、どうも釈然としない。私には、証明も反証もできない非科学であるように思われる。言語決定論は馬鹿げているし、言語相対論は当然である。何よりも問題なのは、言語以外の条件を統制できないことだ。グウグ・イミディール語の話者の方向感覚が、ヨーロッパ人よりも優れていることは、統計的に示すことができるだろう。しかし、その原因として、言語と生活環境とを切り離して調べることは、原理的に不可能だと思う。(10/03/27読了)

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