歴史でたどる領土問題の真実 保阪正康 朝日新書 ★★★★☆
昭和十年代の日本(大日本帝国)の版図は、今よりもずっと広かった。北海道・本州・四国・九州に琉球列島・千島列島(占守(シュムシュ)島〜国後島)を加えたものが「内地」であり、朝鮮半島・台湾・樺太南部、それに関東州(遼東半島先端の旅順・大連)、南洋諸島(グアム、サイパンなどのマリアナ諸島・パラオ諸島・トラック諸島・マーシャル諸島)、そして新南諸島が「外地」であった。(新南諸島は、現在中国・ベトナム・フィリピン・マレーシアなどが領有権を争っている南沙諸島のことである。)後発の帝国主義国家であった日本は、新たに獲得した領土で皇民化教育を推し進めていった。当時の日本が領土の獲得にいかに熱心だったかは、現在の領土問題を考える上でまず押さえておかなければならないだろう。
本書は、北方領土・竹島・尖閣諸島についての歴史的背景を解説したものだ。それぞれに論点が異なるので、解決のための共通の処方箋はなく、ケースバイケースで考えていかなければならない。
北方領土に関する歴史は、幕末の1855年、日露通好条約(下田条約)にまで遡る。このとき、日本とロシアとの国境は択捉島とウルップ島の間に定められた。1875年(明治8年)に、「樺太千島交換条約」によって千島列島の全てが日本領となった。さらに、1905年(明治38年)、日露戦争後のポーツマス条約によって南樺太(および関東州)も日本領となった。したがって北方領土は、歴史上一度もロシア領になったことがない。
1945年8月18日、ポツダム宣言を受諾して武装解除した日本軍に対して、ソ連軍は千島列島北端の占守島への攻撃を開始した。8月28日に択捉島に入ったが、このときにはソ連軍との戦闘はなしに日本兵は降伏し、将校はすべてシベリアの抑留所に送られた。そして、9月5日までに、千島列島には含まれない色丹島・歯舞諸島をも占拠した。
尖閣諸島は、1895年(明治28年)に日本領として編入されたが、そのときに清国は何のクレームも付けなかったらしい。清国は台湾にすら興味を示さなかったのだから、これは本当なのだろう。けれども1968年に尖閣諸島周辺に石油資源が埋蔵されている可能性が指摘され、それ以降中国および台湾が尖閣諸島の領有権を主張するようになった、というのが本書の立場である。
竹島はもっと微妙である。竹島は1905年、中井養三郎という一人の漁師の熱意によって島根県に「編入」された。けれども韓国側は、これを韓国への侵略の第一歩とみなす。他にもいくつかの論点があるが、日韓双方の言い分はいつまで経っても平行線をたどり、決して立証も反証もできない。したがって、「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土」とは言えず、日本政府の主張は強すぎる。
ただし、結局のところ、竹島問題が存在するのはサンフランシスコ平和条約で帰属が曖昧にされたからであり、それは日韓の間に紛争の火種を残しておいた方がいいという米国の思惑が働いたからである。竹島問題で熱くなっている人は、アメリカの掌の上で踊らされているに過ぎないのだ。(12/08/31読了 13/02/10更新)