7ヵ国語をモノにした人の勉強法 橋本陽介 祥伝社新書 ★★★☆☆
ここで言う7ヵ国語とは、日本における7大メジャー言語、英・独・仏・西・露・中・韓である。(ただし、韓国語やロシア語の例文が一つも出てこないところを見ると、7ヵ国語を「モノにした」というのは少々盛っている気がする。)
多言語習得者というのは確かに実在するのであるが、そういう人が書いたノウハウ本というのは役に立ったためしがない。というのも、本書にあるように、外国語(「外国語」というと日本にある非日本語、例えばアイヌ語や琉球語が入らなくなるので、本来は「第二言語」と呼ぶべきである)を習得できない理由はざっくり言うと2つあって、それは
1. 勉強の方法が適切ではない
2. 勉強の量が足りない
なのだが、趣味で語学をやっているような人間にはどうしても「2」が克服できないからである。
絶対的な勉強量(インプット)なくして、語学の習得はありえない。著者が7ヵ国語を習得できたのは、まずもって、40分×45話のドラマのDVDを3回繰り返して見るとか、毎日1時間、通勤電車の中でNHKラジオ講座のCDを聞くとか、そういう取り憑かれたような熱狂的モチベーションを維持できたからである。
演繹的文法観よりも帰納的文法観を、というけれども、自分の頭の中で文法を抽出してくるためにはそれこそ膨大なインプットが必要だろう。
語学に王道はないのであり、この本を読んでも外国語をモノにできるわけではない。
とはいえ、著者の言うことはもっともである。
著者は日本の語学教育を「語学ができない人たちが語学のできない人たちを再生産するシステム」といってコキ下ろしている。確かに、今にして思えば、"This is a pen." などという、到底実際に発話しそうにはない人工的な文章をもってきて、"this" は「これ」、"is" は「〜である」、・・・などと単語に分解して教える式の中学の英語教育は実に馬鹿げていた。(今は改善されているのだろうか?)
私も大学受験の頃までは、英語の勉強とは、さながら暗号解読の如く難解な英文を読み解くことだと思っていて、英語を喋って外国人とコミュニケーションするという発想はなかった。大学においても、7大外国語のうち5つくらいを学んだけれども、やはり暗号解読式の勉強法を繰り返した。随分と時間と労力を注ぎ込んだが、全く喋れるようにはならなかった。それは、外国語で話すという感覚がどういうものかを知らなかったからである。
英語をある程度習得した今なら分かるのだが、そのときには既に勉強に費やすべき時間が取れなくなっているというのは皮肉なことだ。
認知言語学に基づいた説明は新しいと思った。認知言語学の知識は、外国語の習得に多いに役立つだろう。この視点は、現在の語学教育でもっと強調されるべきなのではないだろうか。
また、この本には、多言語習得者ならではのネタもたくさん盛り込まれていて、なかなか楽しかった。
例えば、
中 柱 昼
低 底 弟
の各行はいずれも「チュウ」、「テイ」と読むが、それぞれ「真ん中」、「ひくい」という共通の意味を持っている。それは、意味が先にあって、漢字は後から作られたからだという。(ただし現代の北京語では、前者はzhōng, zhù, zhòu、後者はdī, dǐ, dìという具合にすべて発音が異なっている。)
あるいは、give という動詞は
I gave a book to him.
I gave him a book.
という二通りの言い方ができるが、donate, contribute, transfer, explain などの動詞は "to ~" を使った言い方しかできない。それはなぜか?
その理由は、これら4つの動詞がいずれもフランス語起源だからだ(donner, contribuer, transférer, expliquer)。1066年のノルマン・コンクエストの後、イギリスの宮廷でフランス語が使用されていた時期があり、そのときに大量のフランス語が英語に流入したのである。
日本語の語感を身につけるのに古文の学習が有用、というのもその通りだと思う。
「さかな」という語は本来「酒菜」であり、広く「酒の肴」を指す語であったが、それがいつしか "fish" だけを意味するようになり、"fish" を指す本来の語である「うお」はほとんど使われなくなった。
中学校の時に国文法(橋本文法)を教わったが、橋本文法は古典文法との連続性を図るために整備されたものであった。それをあたかも、それ自体に価値があるかのように教え込むのは間違っていると思う。上一段活用と下一段活用を区別する必要はないし、「形容動詞」などという品詞も必要ない。
誤植:165頁15行目 (誤)活用しないもの →(正)活用するもの
多言語の習得に成功すれば、外国語間の翻訳が可能になる(例えば英語 ⇔ スペイン語)ので、きっと新たな感覚が拓かれるに違いない。(14/11/29読了 15/03/28更新)