探検家の憂鬱 角幡唯介 文春文庫 ★★★★☆
とにかく文章が巧い。よどみなく流れ、それでいてウィットの効いた文章は、なかなか真似のできるものではない。素晴らしい文才の持ち主だと思う。
著者は、早稲田大学探検部の出身で、先輩にはやはり探検作家(?)の高野秀行がいる。
著書の探検は、植村直己や山野井泰史のようにそれ自体を目的としたピュアなものではなく、書く(表現する)ことを前提としたものだ。そのため著者は、「ノンフィクション作家」という肩書きにこだわる。
「表現と行為─実は冒険がノンフィクションに適さない理由」という小論は面白い。曰く、
ノンフィクションを成立させる場合の本当の難しさは、実は文章を書くときにノンフィクション性を成立させることではなく、むしろ行為をしているときにノンフィクション性を成立させることにあるのだ。
これはなにも、ノンフィクション作家に限ったことではないだろう。SNSが普及した昨今では、「表現を前提とすることによって行為そのものが変形する」ことは、多くの人がそうと意識せずに、ごく普通に体験していることなのかもしれない。
そのようなわけで、旅行作家の書く紀行文というのは、つねにわざとらしさがつきまとう。一種の「ヤラセ」である。
一方で、ノンフィクションの中で一番読みごたえがあるのは、『たった一人の生還』『ミニヤコンカ奇跡の生還』『垂直の記憶』といった「遭難もの」なのである。
それでは、著者の実践する探検とはいかなるものか?
チベットの奥地、ツァンポー峡谷の空白部を単独踏破した際、九死に一生を得る体験をしたらしいが、それがどのようなものであったかは『空白の五マイル』を読んでみないとわからない。
しかし、雪崩に3度遭い、毎回生き埋めになって、その都度九死に一生を得ているところからすると、著者はあまり優れた探検家とはいえないようである。
われわれの世代の都市生活者は、誰もがある種の病気を患っている。それは<身体性の喪失>というものであり、富士登山や皇居ランがブームになっているのはそのためだ──というのも大いに納得できる。
それにしても、冒頭で「探検家ほど合コンでモテない職業はない」とイキがっていた著者が、いつしか結婚して一児の父となり、ブログで腑抜けたことをほざいているのはいただけない。(16/09/03読了 16/12/28更新)