納棺夫日記 青木新門 文春文庫 ★★★★☆
子供の粉ミルクを買うお金もないほど困窮した著者は、たまたま新聞広告で目に入った葬儀屋に就職し、納棺の仕事を始めた。だが、妻からは「穢らわしい」と罵られ、叔父からは絶交を言い渡される。
それでも著者は、服装を整え、礼儀礼節を心がけ、真摯な態度で「納棺夫」に徹した。
葬儀屋や僧侶たちには致命的な問題がある──それは、死というものと常に向かい合っていながら、死から目をそらして仕事をしていることだ。
本書を貫くキーワードは、<ひかり>である。
無数の蛆が蠢く腐乱死体を納棺したとき、蛆が光って見えた、というエピソードは印象的だ。
著者を罵倒した叔父が危篤になり、嫌々ながらも面会に行った。すると叔父は、菩薩のような柔和な顔つきで、涙を流しながら、声にならない声で著者に「ありがとう」と言った。
人は、生への執着がなくなり、死を受け入れられるようになると、周囲のものすべてが光り輝いて見えるという。
あらゆる宗教の教祖に共通することは、その生涯のある時点において、<ひかり>との出会いがあることだ。
親鸞も
仏は不可思議光如来なり、如来は光なり
と言っている。
人間は、肉体的・精神的に極限状態に追い込まれると、光が見え、多幸感に囚われるようにできているのだろう。
宗教体験とはつまり、そういうことだと思う。
臨死体験をした人も、異口同音に光に包まれたと証言している。
程度の差こそあれ、ランナーズ・ハイもその一種だろうし、ドラッグも同じ効果をもつのかもしれない。
山々の紅葉は、山頂から下りてくる積雪に追いつかれないように、一定の距離を保ちながら、山麓に向かって駆け下りてくる。
すると山麓の農家の柿の木の葉が落ち始め、枝先に赤い柿の実がぽつんと残る頃、みぞれが降り始める。
著者は、浄土真宗の王国である北陸・富山の地で生まれ育った。
美しく透き通るような文章で、涙が溢れてくる。
ただ第3章は、蛇足とまでは言わないが冗長。科学用語を宗教的な文脈で比喩的に使うのは良くない。(17/11/12読了 19/02/11更新)