読書日記 2018年

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ヒンドゥー教─インドの聖と俗 森本達雄 中公新書 ★★★★★

ヒンドゥー教について、教科書的な知識を概説した本・・・ではない。
コルカタのカーリーガート寺院での印象的なエピソードから始まって、ヒンドゥー教のエートス、ヒンドゥーの生き方から解脱へ到る方法にまで触れ、さらにヒンドゥーの枠組みを超えて、人生そのものについて思索をめぐらす。著者の四半世紀にわたる探究の結晶である。
新書でも、これほどまでに深い内容を込められるのか、と思う。文章も小気味よい。

ヒンドゥー教とは何か?
ひとことで言えば、ヒンドゥー教とは、「ひとことでは言えない宗教」である。
まず、ヒンドゥー教には、キリストや仏陀やムハンマドに相当するような開祖は存在しない。したがって、いつ成立したかも定かではない。
また、『聖書』や『聖クルアーン』のような聖典もない。そのため、ヒンドゥー教全体を貫く教義もない。さらに、制度化された教団組織もない。

ヒンドゥー教とは、インド人口のおよそ80%が信奉する「多様な信仰形態の総称」である。
宗教の「百科全書」、まさに「なんでもあり」の宗教なのだ。

紀元前1500年頃、ヒンドゥークシ山脈を越え、ハイバル峠を通ってパンジャーブ地方に侵入してきたアーリア人は、先住のドラヴィダ人たちを次々に征服していった。こうして成立したのがインドという世界である。
ヒンドゥー教の起源は、アーリア人が連れてきた神々にある。
興味深いことに、4ヴェーダのうち最古の『リグ・ヴェーダ』に登場する神々は、イランのゾロアスター教の聖典である『アヴェスター』の神々と対応関係があるという。ペルシャ人とインド人は、兄弟のような関係なのだ。

アーリア人が先住民たちを征服していく過程で、バラモンを最上位とするカースト制度が整えられていった。
ヴェーダの神々にささげられる祭祀はすべて、バラモンによって執り行われた。この呪術的な宗教をバラモン教とよぶ。
仏教は、バラモン教を批判するところから始まった。
一方、バラモン教が土着の信仰と融合し、大衆化して成立した宗教が、一般にヒンドゥー教と呼ばれているものである。
だから、ヒンドゥー教と仏教の関係は、キリスト教とイスラーム教の関係に似ているかもしれない。

ヒンドゥーの人生は、4つの段階(四住期)に分けられる。すなわち、学生期・家住期・林住期・遊行期である。
四住期のうち、家住期がもっとも重視される。家住期とは、結婚して家族を養う時期であり、ふつうの意味での人生そのものである。
家住期においては、人生の三大目的である法(ダルマ)・利益(アルタ)・愛欲(カーマ)を追求することが家長のつとめである。
カジュラホの寺院の外壁を埋め尽くすエロティックな石像は、カーマに関する聖典『カーマ・スートラ』の世界観を表現したものなのだ。

ところが、せっかく家住期において社会的基盤を営々と築き上げてきたのに、そのすべてを擲って、解脱へと向かう旅に出るのである。
すなわち、林住期には、人里離れた森の中に隠棲して瞑想と祈りの修行生活に入る。そして、いっさいの欲望や執着を捨て去ると、いよいよ人生の最終段階である遊行期を迎える。
もっとも、四住期というのは、あくまでも「理想の生き方」にすぎない。すべてのヒンドゥー教徒が修行生活に入ったら大変なことになる。
そこで、人生を百年と考え、各段階に25年ずつを割り当てるのである。すると、「人生五十年」だった一昔前まではなおのこと、大部分の人は、林住期・遊行期に入らずに寿命を終えることになるのだ。

しかし一方で、家住期をすっ飛ばして林住期・遊行期に向かおうとする人も少なからずいる。サードゥと呼ばれる修行者の多くは、そのような輩である。
広大なインド亜大陸の四隅に配された四大聖地──北はヒマラヤ山中のバドリーナート、南はタミルナードゥ州のラーメーシュワラム、東はベンガル湾にのぞむオリッサ州のプリー、西はアラビア海に突きだしたグジャラート州のドワールカー──を何度も巡礼し続けるといった生き方も、インドでは許容されるのだ。

解脱とは、輪廻からの脱出である。輪廻の束縛から逃れることができれば、宇宙意識と合一して(「梵我一如」)究極の至福へといたることができる──という。
解脱へといたる道は3つあり、その実践方法が「ヨーガ」に他ならない。
だが、凡夫にとっては解脱への道のりは険しく、短い一生ではとても到達できそうにない。
そこで、輪廻転生の思想が出てくるのである。
人は何回もの人生を生きることができるのだから、その人生で少しでも良い行いをして、少しずつ解脱に近づいていこうと考えるのだ。

最後に、ヒンドゥーの生き方を具現した詩聖タゴールが、自らの死を目前にして、その静謐な心境を歌った『最後のうた』を引用しよう。

こんどのわたしの誕生日に わたしはいよいよ逝くだろう、
わたしは 身近に友らを求める──
彼らの手のやさしい感触のうちに
世界の究極の愛のうちに
わたしは 人生最上の恵みをたずさえて行こう、
人間の最後の祝福をたずさえて行こう。
今日 わたしの頭陀袋(ふくろ)は空っぼだ──
与えるべきすべてを
わたしは与えつくした。
その返礼に もしなにがしかのものが──
いくらかの愛と いくらかの赦しが得られるなら、
わたしは それらのものをたずさえて行こう──
終焉の無言の祝祭へと
渡し舟を漕ぎ出すときに。

(18/12/09読了 19/02/02更新)

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