読書日記 2019年

Home > 読書日記 > 2019年

ガンディー 平和を紡ぐ人 竹中千春 岩波新書 ★★★★☆

ガンディーの葬儀の際、アインシュタインは「後世の人々は、彼が生きたという事実そのものが信じられないだろう」という弔辞を送ったという。
彼のような政治家が現れたことは、人類史上の奇跡と言っていいかもしれない。

ガンディーの名を知らない者はいないだろう。しかし、彼がこれほどまでに劇的な人生を送ってきたとは、まったく知らなかった。
ガンディーの人生は、想像以上にインドという国家そのものを象徴しているのである。

ガンディーは1869年、日本でいえば明治維新の翌年に、アラビア海に面する藩王国(現在のグジャラート州)の裕福な商人の家に生まれた。
弁護士になるべくイギリスに留学、帰国後、弁護士として大英帝国の植民地だった南アフリカに赴く。そこで差別されていたインド人の抵抗運動を組織するうち、政治的指導者としての頭角を表していく。
22年ぶりにインドに帰った40代半ばのガンディーは、インドの完全独立に向けて「マハートマ」への道を歩み始める。その一つのクライマックスが、1930年の「塩の行進」であった。

だが、歴史の歯車は、ガンディーの理想とは逆の方向に動き始める。第二次大戦が勃発、様々な政治勢力の思惑が入り乱れる中で、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立は解消しがたいものとなった。
1940年のムスリム連盟大会において、パキスタン国家の樹立が構想されるに至る。「パキスタン(Pakistan)」という名は、パンジャーブ(Punjab)、アフガン(Afghania)、カシミール(Kashmir)、シンド(Sindh)、バローチスタン(Baluchistan)の頭文字をつなげて作った人工的な単語なのである。
1947年、大英帝国領インドは、インドとパキスタンという2つの国家に分断された形で独立を果たした。念願の完全独立を果たしたはずなのに、それまで隣人として仲良く暮らしてきたヒンドゥーとムスリムは、血で血を洗うような抗争を繰り広げた。「わが国民は発狂した」と言わしめるほどの凄まじい暴力の嵐が吹き荒れたのである。
これが、今日なおくすぶり続けるインド・パキスタンの対立の原因である。

翌1948年、ガンディーは、ヒンドゥー至上主義者の凶弾に斃れた。
だが皮肉なことに、ガンディーが「殉死」したことによって、彼は新生インドのアイコンとなった。「民主主義、多宗教の共存、多様性の統合、平和主義」というインドの国歌としての方向性は、このときに定まったのである。
インドという国家は、およそうまく運営されているとは言い難い。また近年では、「インド型世俗主義」の原則から離れて、ヒンドゥー至上主義的なナショナリズムに向かっているようにも見える。
それでも、現在なお、世界の中でインドが不思議な磁場を持ち続けているのは、ガンディーの理想があればこそだろう。

非暴力主義を貫いたガンディーを、理想主義者として嗤うことはたやすい。
だが、暴力の時代は一向に終わる気配はなく、ますます苛烈さを増しているようにも思える。今こそ、ガンディーの再来が望まれているのではないだろうか。(19/05/13読了 19/06/23更新)

前へ   読書日記 2019年   次へ

Copyright 2019 Yoshihito Niimura All Rights Reserved.