インパール作戦従軍記 一新聞記者の回想 丸山静雄 岩波新書 ★★★★☆
私の祖父は軍医だったが、インパール作戦で亡くなった。
インパール作戦は、狂気の沙汰としか思えない無謀な作戦だった。実際のところ、日本軍は「有史以来最大の敗北」を喫したのだ。
インパール作戦が開始されたのは1944年3月8日だから、インパール作戦が行われようと、行われなかろうと、日本の敗戦は決定的だった。しかし、インパール作戦が行われなければ、無用の犠牲を防ぐことはできたはずなのだ。
軍司令部は、
「日本の戦史にも類例のない最遠隔地における一大陸戦であり、インパールを三方面から包囲し、英印軍をインパールに捕捉するという雄渾きわまりない作戦である」
「作戦にはビルマ軍、インド国民軍が参加し、多彩な国際戦が展開される。作戦が成功し、インド国民軍がインド領内に入ったならば、インドの民衆はこぞって国民軍を歓迎し、支持し、反英独立運動は全土に爆発するであろう。インドが独立するならば英国は足場を失い、結局、連合軍の対日作戦は成り立たなくなり、太平洋戦争の解決に道が開けるだろう」
「ジンギス汗のモンゴル遠征軍の故智に学び、第十五軍は一万頭の牛や馬を連れ、多くの野菜、穀物、花の種子や苗木を持って行く。牛には資材を積み、いよいよ食糧が不足してきた場合には食糧にする。種子はインパール平原に蒔いて自給自足圏をつくる」
などと、熱に浮かされたような文言を並べ立てた。
だが、これが滑稽だと言って、嗤っていれば良かった時代は過ぎた。我々は、国家が大真面目にこういうことを言っていた時代があったことを、心に留めておかなければならない。
インパール作戦の主戦場は、インドとビルマ(ミャンマー)の国境地帯である。長く文明社会から隔絶されており、当時は地図の空白地帯だった。
北部のナガ丘陵、南部のチン丘陵からなり、ナガ人とチン人が住む。西側はインドのアッサムで、ここは世界で最も雨が多く降るところだ。
印緬国境地帯は、現在でも地球上でもっともアクセスしにくいところの一つだろう。
著者は新聞記者として、たった一人で、チン丘陵のチャモールにテントを張って滞在し、取材を続けていた。
だが、インパール作戦は失敗に終わり、日本軍は後退作戦に移る。
第3章、退却行の記録(「敗走千里」)は読み応えがある。著者はそこで、「戦争」を見るのだ──。
著者は、チャモールから「白骨街道」と呼ばれたカボウ谷地を下り、雨期で大増水して濁流と化した河川をなんとか渡り、メイミョウまで辿り着く。マラリアと赤痢に冒され、食べ物はなく、英印軍の爆撃をかわしつつ、篠突く豪雨の中、膝下まで浸かる泥濘に脚を取られながら・・・。
よくぞ生きて帰ってこられたものだと思う。
だが、前線に行かされた兵隊はもっと悲惨だった。著者は、目の前で死んでいく兵隊を何人も見た。
たとえインパール作戦を生き延びたとしても、五体満足な兵隊にはイワラジ河会戦が待っていた。
インパール作戦で前線に立った兵隊のうち、生還したものはほとんどいないという。みんな死んでしまった。
本書の欠点は、冒頭の地図がわかりにくいところだ。これでは、道路と川の区別がつかない。退却行のルートを示した地図が欲しかった。
著者は、本書をまとめられるようになるまでに、40年も待たなければならなかったという。でも、やはりもっと早いうちに書いておくべきだったのではないか・・・と思うのだ。(19/05/26読了 19/10/09更新)