読書日記 2022年

Home > 読書日記 > 2022年

バンコクの妻と娘 ★★★★☆ 近藤紘一 文春文庫

この人、天才的に文章が巧い。
前作『サイゴンのいちばん長い日』『サイゴンから来た妻と娘』は、サイゴン陥落の瞬間に居合わせたという歴史的意義があったが、本作品はそれよりもずっと個人的記録のテイストが強い。(筆者はテヘランでイラン革命の瞬間にも立ち会っているが、その話はまったく出てこない。)
何気ない日常を描いているようでいて、次から次へと事件が起きる。まさに小説のような人生だ。
年頃の娘になったユンの話題が中心。よくぞここまで赤裸々に私生活を晒せるものだと感心するが、ネタにされるユンも気の毒な気がする。

とはいえ、これはただの日記ではなく、全体を貫く普遍的なテーマがある。個人のアイデンティティはいかにして形成されるか、という命題だ。
ユンは、ベトナム人の母と(血のつながらない)日本人の父の間で育ち、日本とタイに住みながらフランス語のリセに通うという多言語生活を強いられている。さらに、祖国である南ベトナム自体が消滅してしまったという特殊事情もある。
筆者はそこに、(多くを語ろうとはしないが)外交官の娘であった前妻の姿を重ね合わせる。
幼少期から諸国を点々とする根無し草のような生活は、マルチリンガルにはなれるかもしれないが、実際にはどの言語も中途半端になってしまう(もちろん例外もあるだろうが)。やはり、小学生から高校生の間くらいは一箇所に定住して、「思考の道具としての母語」を身につけることが大切なのだ。
この「文化的無国籍感」のつらさは、きっと当人にしかわからないだろう。

本作品が書かれたとき、筆者はまだ30代だった。昭和時代に比べて今の大人は幼くなったと言われるが、非常に老成している印象を受ける。(22/07/13読了 22/09/27更新)

前へ   読書日記 2022年   次へ

Copyright 2022 Yoshihito Niimura All Rights Reserved.