陰翳礼讃 ★★★★★ 谷崎潤一郎 中公文庫
恥ずかしながら、この年になってはじめて『陰翳礼讃』を読んだ。
なるほど、こういう内容だったのか。これが「名著」と呼ばれるのも、大いに納得がいく。
われわれ東洋人は何でもない所に陰翳を生ぜしめて、美を創造するのである。<中略>美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にあると考える。
電灯のなかった時代は、今よりもずっと暗かった。だからかつての日本では、工芸品も、建築も、女性までも、暗闇の中に置かれていることが前提となっていた。
この小品が書かれたのは、昭和8年――今から90年以上も前――である。
著者は明治19年生まれだから、江戸時代はまだ、それほど遠い昔ではなかった。
母は至ってせいが低く、五尺に足らぬほどであったが、母ばかりでなくあの頃の女はそのくらいが普通だったのであろう。いや、極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだと云っていい。<中略>それで想い起すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないのか。あの、紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸、その胸よりも一層小さくくびれている腹、なんの凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合いに痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のように感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ云う風ではなかったのであろうか。
吉行淳之介は「解説」の最後に、こう述べている。
これらの作品が書かれてからおよそ四十年後の現在は、当時よりはるかにアメリカ化されていろいろの意味での露出度が強くなっている。そういうときに、「陰翳」をあらためて考えることによって、日本人的体質・気質の限界ならびに美点を再確認してみるのも、必要とおもわれる。
それから更に半世紀が経ったが、この文章は現代でもまったくそのまま通用する。
1世紀近く前に書かれたこの小品が、今なお読み継がれている――しかも、とても良く読まれている――というのは、真に驚くべきことではないか。(24/06/22読了 24/08/03更新)