今こそマルクスを読み返す ★★★★☆ 廣松渉 講談社現代新書
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻から2年以上が過ぎた。ロシアとは何であるか、ソ連とは何であったのか、そして共産主義(あるいは社会主義)とは何なのかを理解するためには、マルクスまで遡ってみなければならない。
本書が出版されたのは1990年だから、共産主義の失敗は明らかになっていたが、ソ連の崩壊まではまだ予見されていなかったかもしれない。
だが、「今こそ」マルクスを読み返さなければならない時だ。
マルクスは、まずもって哲学者である。哲学者といえば、ロッキングチェアに揺られて難解な言葉を弄んでいるだけの連中かと思いきや、人類史上、マルクスほど社会に多大な影響を与えた思想家はいないかもしれない。
なにしろロシアは、マルクスの言を真に受けて、本当に革命を起こしちゃったんだから。(そしてその結果、何百万人もの命が失われることになる。)
本書は、新書とは思えない重厚さである。そもそも『資本論』自体が、3巻からなる膨大かつ難解な書物なのだが、筆者の言い回しのクセが強すぎて実に難渋させられる。
けれども、二度三度と読み返してみると、朧気ながら論旨が見えてくる。「読書百遍意自ずから通ず」なのである。
著者曰く、マルクスが『資本論』で言いたかったことは、
いわゆる近代市民主義のイデオローギッシュな欺瞞性の暴露、とりわけ、自由で対等とされる労資関係が一種独特の“奴隷制”(「賃金奴隷性」)であることの剔抉(てっけつ)、資本制生産様式のこの実態の批判
ということである(P. 142)。
マルクス自身は、
賃労働者は、一定の時間を無償で資本家のために(従ってまた余剰価値にたかる資本家の伴食者たちのために)働くかぎりでのみ生きることを許される存在であること、それゆえ、賃労働者制度は一つの奴隷制度であり、しかも、賃金がよくなるかわるくなるかにはかかわりなく、労働の社会的生産力が発達するにつれて、ますます過酷になって行く奴隷制度である
と述べている(P. 168)。
まるで昭和のサラリーマンの悲哀のようだが、マルクス(1818~1875)が生きたのはダーウィンとほぼ同時代なのだ。となると、ダーウィンの如き大ブルジョワこそが、まさに労働者の打倒すべき敵であったわけだ。
さて、これはマルクスが述べていることではないが、著者は最後の補節において、1990年にマルクスを読み返す意義として「環境破壊・資源枯渇・人口爆発」という問題を挙げている。著者は、
もし、資本主義時代のエートスや経済価値観が維持されたならば、人類生態系の破綻は必定です。とあれば、未来共産主義社会においては、生態系破壊を禁圧するエートスや評価規範が形成されることでしょう。それもおそらく、「エコロジカルな価値(正・負の価値)」が経済活動の基軸的な評価基準になるものと予料されます。
と述べている。
しかしながら現代社会においては、資本主義体制下でありながら、エコロジカルな価値が(基軸的ではないにしても)経済活動の一つの評価基準になったことは興味深い。(24/07/01読了 24/11/07更新)