最澄と空海 ★★★★★ 梅原猛 小学館文庫
比叡山を訪れるにあたって、少し予習しておこうと思って何気なく読み始めたのだが、実に深かった。
これぞ「梅原日本学」の真髄。
このような小著では到底扱えないほどの深遠かつ膨大な内容を含んでいるにもかかわらず、スラスラと読め、驚異的にわかりやすい。そして、もっと深く学びたくなる。
最澄と空海。日本史上最高の思想家の2人が、同時代に生きたということは奇跡のように思える。
最澄―最も澄める人―はどこまでも純粋な求道者であるのに対し、空海は空と海のようにおおらかで、果てしなく広い。まさに「名は体を表す」である。
著者はまた、一途でひたむきな最澄を「円的人間」、万能の天才・空海を「楕円的人間」と称している。
現在でも「お遍路さん」が盛んに行われていることが示すように、今なお空海はとても人気がある。
ところが意外なことに、空海は、明治以前は篤い信仰を受けてきたけれども、明治以降は、「加持祈禱を操る怪しげな僧」「天皇に媚びた俗物」として捉えられてきたという。
私自身は、湯川秀樹『天才の世界』や司馬遼太郎『空海の風景』で空海の天才ぶりを知った。だが、梅原猛こそが、空海の天才を「再発見」した張本人だったのだ。
(ちなみに、梅原猛は『空海の風景』を酷評し、司馬遼太郎が激怒して二人は絶交状態になったというエピソードがある。)
その空海が唱えた真言密教は、宇宙の中心にいる大日如来を唯一絶対神とする。
とすると、密教はまるでイスラームのようであり、もはや仏教とは違う宗教と言えるかもしれない。実際、密教を伝えたとされる「真言八祖」に釈迦は含まれない(八番目の祖が空海である)。
ちなみに「三密」は密教用語であり、身密・語密・意密、すなわち身体・言葉・心の「密」を表す。密とは秘密、つまり万物の奥に隠れているものである。
このわれわれの中の三つの密を大日如来と一体とさせることによって、われわれは大日如来そのものになることができると密教は説く(P. 326)。
これがすなわち、「即身成仏」の教えである。
空海が一人で作り上げた真言密教の教義はあまりに完璧すぎて、後世の人はそれを後生大事に守っていくしかなかった。その空海は、やがて自身が信仰の対象となり、神と崇められるようになった。
一方の最澄が作った天台宗の教義体系は、不完全だった。そうであるが故に、その教義を発展させるべく、法然・親鸞・道元・日蓮といった優秀な後継者が綺羅星のように現れたのだ。
興味深いのは、最澄の教育論である。
最澄は弟子に、比叡山での12年間の修行を課した。その際、天台教学のみならず他の宗派も等しく学ぶように説き、さらに3分の1の時間は仏教以外の学問に当てるよう具体的に指示している。そして、修行期間のうち、初等教育にあたる前半の6年間は聞慧(学問を学び聞くこと)を主、思修(自分の頭で考えること)を従とし、高等教育にあたる後半の6年間は思修を主、聞慧を従とするよう説いたのである。
つまり最澄は、弟子が自分を超えていくことを予見し、そうなるような教育コースを考えていたのだ。これは、現代にも通じる素晴らしい教育理念といえよう。(24/10/07読了 24/11/11更新)